志度

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 日はまたたく間に流れ、不比等が讃岐国に来てから三十日あまりが過ぎた。  彼が志度の地に慣れたのと同様、周囲もこちらの存在に慣れたものだから、気を付けてはいてもつい口から出てしまう都言葉の端々を聞き取っては、上手に真似をする。  不比等は気位は高いが、倣岸ではない。  貴族の自覚を捨てて一介の人間として振舞うようになって以降、若さゆえの柔軟性に助けられて急速に環境になじんで行った。  中年の女性たちからも『はじめは頼りない子だったけど、すっかりええ男になったねえ』とからかわれるほどだ。  その通り、来た当初は肌も生白く、剣を扱えるだけの体だったのが、今では陽に焼け、海で鍛えた強靭な四肢を持つ青年に変貌していた。剣術の素養のおかげでもともと肩の力は強かったし、真木の手ほどきと自分の努力もあいまって、今では当たり前のように一人で出漁することもできる。 「すっかり変わったなあ、あんたも」  夜、獲った魚を器用に焼いている不比等の背中を見て、真木が笑った。 「肌も焼けて、身体つきも全然ちがうし、飯の支度も出来るようになってさ。浜で会ったときとは別人だ」 「そりゃお前にあれこれこき使われたからな」 「あんたが気が利かなさすぎなんだろ」  焼けた魚に二人で齧りつきながら大笑いする。  当初、使用人を使うことに慣れている不比等の一種の鈍さに、真木は『気の利かない馬鹿だな、もっと自分で動け』と叱った。  馬鹿呼ばわりされた不比等は腹を立てたものの、過去の習慣が取れないほうが悪いと思い直し、努めて用事を手伝うようにしていくことで、すぐに雑事をこなせるようになった。  今は一日交替で食事を作ったり、真木の補助役としてきびきびと働いている。  不比等がここに来た本当の目的を知らない真木は、いつも朗らかな笑みを向けてくれるが、それを見るたびに不比等のほうは胸が痛む。  かつてないことだった。  何を考えているか判らない、賢すぎて恐いと幼い頃から評されてきた不比等は、親しい者に隠しごとをしたり利用したりしても苦しむどころか、平然と過ごしてきた。周囲の事象を感情なく冷徹に眺めることを、愉しんでさえきた。それなのに真木にだけは、良心の呵責を感じるのだ。    己は生活の手段をひととおり知り、実践できるようになった。  浦の人々との会話も可能になった。  龍神の詳しい場所を特定して、潜水力をもっとつければ宝珠を自力で奪えるだろうという自信もついた。  もう真木に面倒を見てもらわなくてもよくなったのだから、居候は早く去らねばならないのだ。最終目的が宝珠の奪還であるなら、なおさらに。  それなのに、いつまでも真木の家から出て行かない、否、出て行けないのは、なぜなのか。  ――単純な話だ。彼と共に過ごしていると笑みが絶えず、時の長さを忘れるほどに楽しいからだ。  近ごろでは真木が他の漁師や海女と話しているだけで拗ね心が生まれ、彼が一番親しいのは自分であってほしいと、童子のような心境に陥るほどである。   他人に興味はなかったのに、いつから自分はこんなに執着心が強くなったのだろう。  未熟さを矯めなければ、都に帰っても政治など勤まりはしないのに。  ――都に帰っても――?  珠を取り戻したとして、そして真木はどうなる?  彼を放っておいて、自分だけ都に帰るのか?    椀を片付ける不比等の手が思わず止まる。    真木を置いて行くのは、考えてもいない選択肢だった。珠を都に持って帰ったあとの政治活動は頭の中で組んでいても、真木のことをどうするのかはすっかり抜け落ちていた。  それほど真木の存在が自分にとって自然なもので、傍にいて当たり前になっていることに、不比等は愕然とした。  友人といえど、他人を自分の心に入り込ませすぎてはいけない。人は人、自分は自分。あくまで醒めた精神を保ち続けなければならない。いずれ人々を率いて行く者への訓諭として、田辺氏はそう不比等を諭してきたし、本人も迷わず実践してきた。  だが真木に対しては、完全にその教えを忘れてしまっていた。  秘密を抱えていることが辛く、家から出て行きがたいほどに彼との距離を近くしてしまったのは、過酷な自然環境での心細さと油断のせいなのか?  不比等が食器をまとめながらも深刻に考えこんでいることに気づけなかったのか、真木はいつも通りの態度で声を掛けた。 「帰るのは多分夜中か朝になる、先に寝ててくれ」  こんな夜中に?と行き先をあわてて問うより先に、海人は家から出て行ってしまった。 ※ ※ ※  真木が帰って来たのは夜明け前だった。  不比等は麻布を被って寝たふりをしていたが、実際は一睡もできていなかった。  彼の不意の外出が気になってずっと眠れず、輾転反側を繰り返したからだ。  真木が出歩くのは昼だけで、それも魚や貝、海草を他の里に持って行って穀物と交換してもらうためだ。夜に留守することなど、これまでにはなかった。  そこで不比等が思い至ってしまったのは、誰かと逢引しているのではという推測だった。  真木だって若い男だ、そういうことはあるだろう。自分にしろ、都に居るころは夫ある美しい女性に近付くなど、ずいぶんと危ない橋も渡ったものだ。  この里には中年の夫婦と小さな子供はいるが、年ごろの女性は見かけない。とすれば他所の里と交流しているときに、若い異性と知り合ったのか――自分で自分を馬鹿らしいと嗤いながらもあれこれと不比等は憶測し、結局眠らないまま夜明けを迎えたのだった。  しかしこちらが寝ていると疑ってもいない真木は、肩を掴んで揺り起こす。 「おい起きろ不比等、朝だぜ――海も凪だ、沖まで出よう」 「……ん、もう朝か」  今起きた風にわざと目を擦り、伸びをして見せてから瞼を開いた。  真木が、こちらを覗き込んでいた。  黒目がちで、いつも澄んだ光を浮かべている真木の目元が、どこか物憂さを漂わせている。  顔色の悪さも隠せない。  同性だからこそ昨夜に何があったかを否応なく察してしまった不比等は視線を背けると、重い身体を起こした。
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