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秋も終わりに近づけば、人々は食糧を蓄えはじめる。
つまり、それを狙った海賊が横行する時期でもあった。
不比等と真木は沖で船を止める際も、海賊の帆が現れるのを用心しながら慎重に素潜りを繰りかえし、貝や海藻を獲った。
海賊の無法ぶりを浦の人々から聞いたとき、政治を司る側の人間として、不比等は愕然とした。地方官吏の目が行き届いていないのは、朝廷の力不足以外の何ものでもないからだ。
都にも盗賊は出没するように、盗る者盗られる者は各地に必ずいるにしろ、貧しく厳しい生活を精一杯生きる人々から無慈悲にも糧を奪って行く無法者たちに憤りを感じた。そうせざるを得ないところまで追いつめられた盗人を生み出してしまう、政治の非力にも。
海賊とて生きた人間である。
生きるためには手段を選べないのも頭では理解できる。
だが、こんな目立たない集落にまで略奪行為が及ぶような、そんなことがあって良いのだろうか?
常々溜めこんでいた義憤は、不比等の若い一途さと結びついて徐々に大きくなっていたのだが、それは真木と志度の浦に戻ったある日の夕方に、思いがけず爆発することになった。
※ ※ ※
釣果を網に入れて集落に近づいたとき、様子がおかしいと顔色を変えたのは真木の方が先だった。
はたして集落に入ると、すでに海賊が刃で人々を脅し、貴重な穀物や蓄えを次々と強奪していた。そればかりではなく男たちは殴られ傷付けられ、女性たちは引きずり倒されかかっていた。
二人ともすかさず助勢したが、老人である長にも海賊が拳を振るおうとしているのを見て、真木は急いで掴みかかった。
「この野郎っ、長に何をする!」
しかし大柄な海賊は小ざかしいとばかりに真木を振り払い、頬を殴った。
真木の身体が叩き付けられるのを見た瞬間、それまでは冷静だった不比等の怒りが頂点に達した。
家に走り戻って長剣を片手に引き返すと、真木を殴った海賊の前に立ち塞がり、その胴を瞬時の一刀で薙いだ。
空間に飛び散る鮮烈な血飛沫に、漁民達の悲鳴が上がる。
返す刀で不比等はもう一人、近くで女性の襟を掴んでいた若い海賊の左腕を斬った。
腕を失って砂地を転げ回る海賊を無視して、さらに首領らしき中年の髭男に向かう。
相手も刃を構えたが、しょせんは盗賊である。幼いころから剣術を鍛えられ、武人の教育も身に付けている不比等の敵ではなかった。
顔色も変えず海賊の剣を跳ね飛ばした不比等は、次の一閃で首を斬り落とした。
男の胴が、木が倒れるように地面に落ちた。
頭領がいとも簡単に殺されたことに、残った下っ端たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしたが、不比等はその一人の腕を捕まえ、皆に聞こえないよう落とした声音で告げた。
「いいか、この浦には二度と来るな――貴様らの悪さは噂以上に目に余ることが判った、ここいらの里をまた襲おうものなら、今度首を斬られるのは貴様らの番だぞ」
岩のような顔を真っ青にして必死でうなずく海賊に、不比等は冷ややかな追い討ちを掛けた。
「それだけじゃない、その時は都から兵を呼び寄せて、お前たちの仲間も一人残らず始末してやる――帰ったらそう言っておけ」
脅しではなく、不比等は本気だった。
彼の目付きからそのことを知った海賊は震えるしかなく、身が自由になるなり、ほうほうの体で残りの仲間と引き揚げて行った。
※ ※ ※
海賊が去り、舞い上がった砂埃も落ち着いた。
荒れた集落はしんと静まりかえり、血糊のついた剣を携えて真木のところに歩いて行く都人を、人々が遠巻きに見つめる。
不比等は地面に腰を落としたままの真木に手を差し伸べたが、彼は怯えた表情を見せ、動こうとはしなかった。
――そうだろうな。
うなだれた不比等は、黙って手を下ろした。
海賊相手とはいえ、何人も斬った者を恐がるのは当たり前のこと。善良な海人たちは悪人に殺されることはあっても、殺す側の人間ではないのだから。
我にかえった皆の賞賛と感謝の声がようやく上がっても、不比等の沈んだ心が晴れることはなかった。
見苦しい場を見せた、済まないと長に言うと、近くの小川に姿を消すことにした。
下流で、赤く染まった服を脱いだ。
染みにならないうちに落とさなければならないことくらいは、不比等も知っている。
服と剣を丸ごと水に沈めてすすぎ、岩に干すと、腰に布を巻いた姿で自分も川に入った。
夥しい返り血を流すために結髪も解き、顔や身体を掌で擦る。
身分ゆえに何度も刺客に遭ったことがある不比等にとっては、人を殺すのは慣れた話だったし、動揺もしなかった。
だが……
流れに軽く潜り、身が浮くのを感じながら、不比等はやるせない思いに目を閉じた。
真木の怯えた瞳の記憶が、心に深く刺さったままだった。
まるで別人を眺めるかのように、突き放した瞳。
彼を護りたかった。
海賊に殴られるのを見た瞬間、これまでに感じたことがないほどの怒りが噴き出した。
隠していた剣を抜いて、民衆の前にもかかわらず血を流した。
しかし血を見慣れない者にとってみれば、いかに正当防衛であろうと、倒した側へのわだかまりが生じるのは当然のことだ。
良いことをしたはずなのに忌み嫌われるという矛盾に苦笑しつつ、不比等は川から出る。
襟足の髪を絞って肩に垂らし、濡れた前髪を掻きあげたとき、川岸に真木が立っているのに驚いた。
殴られて切れた唇の血を拭おうともせず、こちらを待っていたようだった。
「真木……お前、いつから」
「さっき追い掛けて来たんだ」
「………」
どうにも、場を繋ぐ言葉が見つからない。
不比等は目線を背け、岩に立てかけた剣の具合を確かめた。
幸い剣は刃こぼれもなく、血も残っていない。暇のある時にこまめに砥いでおいたのが役に立った。
軽く降って水滴を落とすと、何か用かと低い声で尋ねた。
「口に血が残ってるぞ真木、早く洗って冷やさないと腫れるぜ」
「……いいんだ、それよりも礼を言いたかったんだよ。俺を、浦の皆を助けてくれて、ありがとう……長もあんたが居てくれて良かったって、嬉し泣きしてる」
「人殺しに無理に感謝しなくていい」
「あんたは人殺しなんかじゃない、悪いのはあいつらだ!」
悲痛にも聞こえる真木の返答に、不比等は剣を持ったまま、苦い笑みを向けた。
「隠さなくていい、お前だって俺が怖くなっただろ? 何しろこんな得物を振り回して、何人も斬ったんだからな」
「頼むよ不比等、礼くらい言わせてくれ――そりゃちょっと驚いたけど、俺だって皆だって、あんたが怖いなんてぜんぜん思ってないんだ」
縋るような科白に、その場しのぎの響きはなかった。
少なくとも嘘は言っていないらしい。
不比等は、頑なになっていた感情と表情を心持ち和らげた。
「……判ったよ。下らないことを言ってすまなかった」
押し問答を繰りかえしても仕方がない。濡れた服と剣を片手に持って、帰ろうと真木に促した。が、ここで顔を洗って行きたいと返されてしまい、不比等は一人で里に戻った。
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