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天武十年(681)の夏。
都は飛鳥、時の天皇は天武であった時代。
夏の厳しさはまだまだ続くと思われる日の真夜中、大原にある広大な館に、都から早馬が到着した。
大王の使いである、館の主人への目通りを願う、と使者が呼ばわると、篝火の周囲にいた警護兵たちは即座に門を開けた。
あわただしく表の間に通され、畏まって下座で待つ男の耳に、近付く足音が届く。
ほどなく長身の美青年が現れ、顔を上げよと命じた。
青年の年のころは二十歳過ぎ。
黒髪をひとつに結い、絹の衣服を纏った品のある姿は、出自の高さを否が応でも滲ませている。
意志の強そうな顎の線や彫りの深い双眸は切れ味に満ち、頭脳の冴えが冷徹であることを示しているが、しかし抑え切れない野生をも見る者に悟らせる、そんな面立ちの若者であった。
用件はすでに門番から伝わっているのであろう、青年は上座に座るなり切り出した。
「朝廷からの急使と申したな――前置きは要らぬ、本題に入れ」
「は」
端的な口調の鋭さに、心に斬り込まれるような冷やりとした錯覚を使者は味わった。この方の前では誰も包み隠しなど出来ないであろうと恐れつつ、説明を始める。
「昨年の春に唐国へ向けて出立いたしました遣唐使一行が、先刻都に戻ってまいりました」
「それで?」
「彼らは帰朝の際、皇帝に嫁いでおられます安知媛より三種の宝玉をお預かりいたしました、『大王に謹んで献上いたします』とのおことづけだったそうです……ですが瀬戸内まで船が戻り、あと少しで都に到着というところで、大嵐に見舞われまして、――」
「宝を失った、と?」
言いにくそうに濁された語尾を、若者が引き取った。
使者は然りと力なく頷く。
「正確には、失われたのは一個のみ――荒れ狂う海に、遣唐使一行は龍神が宝を欲しているのであろうと知り、嵐を鎮めるために珠を投げ入れたのです」
「その一個とは」
「仏の御顔が刻まれている、面向不背の珠であったそうです」
若者は名高い宝の名を聞くと、顔を顰めた。
が、声はいたって平静なままで、問いを続ける。
「その難は瀬戸内のどの付近で起こったのだ」
「讃岐国の志度浦の沖であると、船頭が申したそうで」
「志度? 聞いたことがない地だな……で、遣唐使は全員無事であったのだろうな」
「は、それは――珠が海中に達するなやいなや、荒波と風がたちまち鎮まりましたそうで……しかしながら一行は、安知媛の御厚意を大王にお伝えすることが出来なかった慙愧の念に堪えず、未だ悔やんでおられるご様子です」
若者は皮肉めいた微笑を浮かべた。
「皇帝妃である鎌足公の娘からの献上品を龍神に渡したのだ、それは使者とて悔やむのは当たり前」
「大王もこの一件をお聞きになり、皆の無事に胸を撫で下ろされると同時に、安知媛のお心遣いを受け取れなかったことを大層残念がっておられます――とりあえず、媛の兄君であられる貴方様にもこの旨を伝えよとの仰せにより、こうしてまかり越しました」
「………」
皇帝妃の兄と呼ばれた若者の名は、藤原不比等。
天智天皇の忠臣であった大織冠藤原鎌足の次男であり、父と兄亡き今、藤原家の当主として一族の頂点に立つ青年である。
安知媛とは腹違いの兄妹に当たり、妹はその類稀な美しさから、幼い頃に日本を離れて異国の君主の後宮に入っていた。
宝珠を奪われたのは、兄としても、藤原氏の当主としても、家臣としても不比等には痛恨の出来事であった。
小さなころに別れたきりの妹だが、不比等にとっては、遣唐使として派遣された後に夭折した兄貞慧よりも馴染みの深い血縁である。
唐と日本の親交のために、異国の地に向かえとの勅命を進んで拝受した妹。
その彼女が贈ってきた宝が奪われたというのは、兄である彼には到底承服しかねるものがあった。
そして藤原氏一族の政治面でも、この宝は重要な役割を担っていた。
安知媛は聡い。表向きは唐からの贈答物と見せながら、藤原氏の娘である自分が天皇に比類無き宝を献上することで、一族に対する天武天皇の印象を高める意味を持たせていたはずだった。
特に壬申の乱の後、藤原氏の立場はかなり不利になっているのだから。
そして、今上には不比等もそれなりの敬意と忠誠心を抱いている。
家臣であるからには、主君の無念に応えなければなるまい――
種々の状況に対して思考を重ね、不比等はすぐさま一つの決意に達した。
御苦労であった、この件に関してはまた改めて主上にお目に掛かると述べ、使者を都へと帰したのだった。
※家系図と注記はこちら→https://estar.jp/creator_tool/novels/25922511
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