忘れてしまう前に、眠りのキスを

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 目が覚めたらそこは知らない建物の中だった。ドーム状の本棚のようなものが壁に敷き詰められた、広い場所。少し声が響く。どこ…どこ…どこ――。  全く見覚えがない場所だが、これより前の自分の記憶も曖昧である。  しばらく記憶を辿ろうとしてみたがやはり思い出せない。何も無いこの空間でじっとしているのも何なので、とりあえず出口を探すことにした。  正面に一面の本棚とは少し色の違うタイルが見える。多分、あれがドアだろう。  近寄ってそのタイルに触ると、フワン、と音がしてタイルが右にスライドした。やはり扉だったようだ。  その先にあった廊下を歩きながら、「ラ〜」と今しがた聴こえたドアの開閉音を口ずさむ。覚えてはいないが、たぶん自分は絶対音感を持っているのだろう。  短い廊下はすぐに終わり、もう一度ラの音を立てながらドアが開くと、そこは――やはり見覚えのない街だった。  人は誰もいない。  空気は少し肌寒く、白く薄い空気は早朝のようだった。  そう言えば自分はどんな服を着ているだろうかと見下ろしてみると、ステージ衣装のようなドレスのような装いだった。スリットが深く入り、紺色の艶やかな生地には満遍なく金色の刺繍やスパンコールが散りばめられている。  益々自分が何をしていたのかわからない。  何より、自分が何者なのかもわからない。  記憶喪失というやつだろうか。まさか自分がそんな体験をすることになるとは。  とは言え、目が覚めたのだから途方に暮れている訳にもいかない。記憶の欠片を求めて街を歩いてみることにした。  今は閑散としてはいるが、普段は賑やかな街なのだろう。さびれたという様子はなく、ただただ人だけが居ない、ようだ。  白を基調としたタイル貼りの家々は、このカラッとした街の空気に合っているなと感じる。  記憶はないのだがどこか懐かしい気がして、そのまま郷愁を歩く。  しばらく進んでいると、どこからが人の声が聞こえた。とても必死に何かを探す、声。  どうやら後ろの方から聞こえる。  思わず振り返ると、先程歩いてきた道の方から人影が近づいてくるのがわかった。声も、だんだんと鮮明になっていく。 「シンシア!」  人の名前を叫んでいるようだ。  男性だ。  早いスピードで近づいてくるということは、きっと走っているのだろう。  ぼんやり立ち止まっていると、その人物はなんと自分に向かって走って来ているようだった。だんだんとわかってくる必死な表情を見ても、何も思い出せないが。 「シンシア!」  いよいよ目の前にたどり着いた男性は、はっきりと自分に向かってそう言った。  つまり、私は、シンシア。……なのだろうか。 「……ハァ、、よかっ、た」  息切れを整える人物を、何とも言えない気持ちで見守る。  少しして落ち着いたその男性は、しっかりと自分の目を見て、そしてもう一度言った。 「シンシア」  間違いない、どうやら自分の名前はシンシアと言うらしい。 「……」  何と返せば良いかわからず黙っていると、男性は漸く違和感に気づいたのか顔を覗き込んできた。 「……シンシア、どうした? やはり目覚めたてで具合でも悪いのか…?」  目覚めたて。  確かに、自分は目覚めたてだ。  しかも身に覚えのない場所で。  いよいよ自分が何も覚えていないことが怖くなって、不安からか身体が震える。  それを寒いからと勘違いしたのか、男性は自身が羽織っていた白衣を肩からかけてくれた。 「とりあえず診察しよう。報告はその後だ」  診察?報告?  何も分からない。  しかしやっと出会えた自分を知る人。この人について行くしか術がない。  『シンシア』は連れていかれるがまま、従うしか無かった。  どうやら男性は医者のようで、自宅のような建物で簡単な診察をシンシアに施した。  診察といっても聴診器で鼓動を聞いたりライトで目の下を診たりするだけの簡単なものだが。 「よし、大丈夫そうだな……安心した」  そう発した彼が、安堵で泣きそうな、そんな顔をしていて驚く。 「……どうした、シンシア。さっきから黙りこくって」 「……」 「ん?」  何か言いたいがなんと言っていいかわからず、口を開けては閉じを繰り返す。  医者は不思議そうな顔でしばらくシンシアを見ていたが、しばらくして何かに思い至ったのか、眉間に皺を寄せた。 「……シンシア、まさか……」 「……」 「……何も、覚えてない、のか?」  そう、そうなのだ。  状況を理解して貰えた安堵に、こくりと頷く。  男性は、絶望に頬をはたかれたような表情をしていた。    シンシアが目覚めてから一ヶ月が経った。  自分はどうやらシンシア・サマラスと言う、国民的シンガーだった、らしい。  両親はおらず、兄弟もいない。所属していた事務所の社長が親代わりになってくれていたそうだ。  シンシアは、その類まれなる歌声で国民みんなに愛されていた。――と言うのを自分で確認するのも恥ずかしいが。  この国は長らく隣国と戦争をしていたそうで、平和を願うシンシアは世の反対を押し切ってその隣国でなんとチャリティーコンサートを開催したらしい。  ――それが、もう十年も前のことだった。  当時のゴシップ紙を社長から見せて貰ったが、なかなか衝撃的な内容だった。  その日、そのコンサート会場に、隣国の過激派が押し入って来たのだ。  シンシアは喧騒の中避難しようとして…過激派の一人に強く頭を殴られ、そのまま意識を失った。  ――それから十年、ずっと眠り続けていたらしい。  国民的シンガーの衝撃的な事件は当時世界中でニュースになった。  そして十年経った今、また世界中で、大ニュースになっている。 『十年前、凶刃の前に倒れた悲劇のシンガー、シンシア・サマラスが、奇跡の復活です!』 『原因不明の植物状態から意識を取り戻すなんて、まさにゼウスに愛されたエイレーネー(平和の女神)だ』  シンシアが記憶を失っていることは伏せられた。  知っているのは、あの時シンシアを見つけてくれた医者ニキアスと、事務所の社長だけだ。  社長はどうやら、復活コンサートを計画しているらしい。  親のいないシンシアのここまでの治療費を事務所が長く払い続けてくれていたらしいので、恩返しになるならばもちろんステージに立ちたい。  それに、先日実際にスタジオで歌わせて貰ったが、声を出せば出すほど、身体の芯から喜びが溢れていく感覚だった。自分は本当に歌が好きだったのだと実感する。  ……しかしふと、自分は何のために歌っていたのだろうと、疑問が頭を掠めた。  まるで聖女のように崇められているが、目覚めた自分の胸に手を当てて考えてみても、そこまで危険を犯してでも『平和』を願えるような、尊い人間ではないような気がするのだ。  実感のない空虚な偶像。  それが崇められている気がして、自分は本当は何者なのか掴めないまま、偽物ではないのかという疑念すら湧いた。  そんな不安定な気持ちを吐露出来たのは、主治医のニキアスだけだった。  思わず漏らしてしまった不安に、ニキアスはゆっくりと耳を傾けて、そして優しく「大丈夫だ」と言ってくれた。  ニキアスはシンシアの六つ歳上で、今年で三十五歳を迎えたらしい。シンシアが意識を失った頃からずっと診てくれているんだとか。  シンシアにとってニキアスは、目覚めてすぐ出会った人だからなのか、とにかく心を否応なしに開いてしまう、そんな人だった。  ある日、シンシアがコンサートの打ち合わせを終え診療所を訪れると、シンシアに気づかない様子のニキアスがじっと、古い書類を見つめているところだった。  何だかその横顔が切なくて苦しそうで、シンシアは声もかけられず、締め付けられる胸の痛みに耐えることしか出来なかった。  しばらくしてニキアスは鍵付きの引き出しから何かを取り出すとそれをポケットに入れ、立ち上がる。  シンシアは思わず身体を隠した。  別にいつも通りこんにちはと声を掛ければ良いのに、何だかあの切ない横顔の邪魔をしてはいけない気がしたのだ。  ニキアスは気づかないまま、診療所を出ていった。  追いかけるか、どうするか悩んで、ひとまずニキアスが今しがた机に置いていった古い書類を覗くことにする。  それはかなり古い学術論文のようだった。  医学の知識のないシンシアには何が書いてあるかサッパリだったが、その書類にはびっしりと手書きで文字や図が書き足されている。-196などの数字もあれば、N2といった化学式のようなアルファベットまである。診察記録で見たことがあるので、この字はニキアスのもののようだ。  その時、チリ、と、何かが脳内でチラついた気がした。  何だろう。この光景、前もどこかで見たような。  最近たまに、こうした記憶の残渣みたいなものを感じることがある。  記憶が戻るならそれに越したことはない。  意識を失った時の事件の恐怖で記憶を閉ざしているのだろうと色々な人に言われたが、それを思い出す恐怖よりも、何も思い出せない恐怖の方が強いのだから、シンシアにとってはトラウマなどどうだっていいのだ。  何となくだが、シンシアにはどうしても思い出さねばならないことがある気がしてならない。  日を追う事にその感覚は強くなっていた。  何かを思い出すきっかけになればと、先程出ていったニキアスを追いかけることにする。  適当に走っていると、いた、あの白衣はニキアスだ。  あまり街を一人で歩くことが無かったからかたまにすれ違う街の人に驚いた顔をされる。そりゃそうだ、ニュースや新聞を賑わせている顔が無防備にフラフラしているのだから。  声をあげそうになる通行人に『しー!』とジェスチャーをしながら、距離を取りつつニキアスを追いかける。  距離はあるのだから普通にすればいいのに、何故か無駄に息を潜めてしまう。そのまま身体を少し屈めて、物陰から物陰へ素早く移動する。  これじゃあまるで、よく映画で見る『ニンジャ』だ。  しばらくそんな感じで追いかけていたが、思ったよりも疲れを感じない自分に感動する。社長からは目覚めたてということであんなに過保護に送り迎えをされていたが、目覚めたて二十九歳にしては体力がある方らしい。  これからはたまには送り迎えなしで移動してみてもいいかもしれない。ある意味リハビリだ。  なんてことを考えていたら、ニキアスがある建物に辿り着き立ち止まるのが見えた。何かゴソゴソしていたが、スライド式のドアが開くとその中にスっと入り込んでしまった。  あ、これ。  私が目覚めた場所だ。  ドーム状のつるりとしたタイルに覆われた建物。  かすかに聞こえたドアの開閉音は、確かにラの音だった。 「…あの、すみません」  近くを歩いていた主婦に声をかける。 「あら!シンシアちゃん!」 「はい、そうです。……あの、あそこにある建物って、何なんですか…?」 「ああ、あれ? 私もよく分からないんだけど、所謂ストゥーパみたいなものって聞いたことあるわね」 「ストゥーパ?」 「ほら、仏教の、ブッダ?が祀られてる、なんだろう、お墓みたいな?」 「お、墓…!?」  思ってもみなかった単語が飛び出し、シンシアは目を見開いた。  自分が目覚めた場所は、お墓!?  その時またチリ、と、脳内で何かが焼けついた音がする。思い出せそうで、思い出せない。  あそこに入ってみればわかるだろうか。  シンシアは主婦にお礼を言うと、そっとその建物に近づく。  思い出してはいけないことなのかもしれない。  でも、思い出したい。  自分を自分だとはっきり認識して、地に足をつけたい。  ……そして、ニキアスときちんと本当の自分で向き合いたい。  シンシアは入口にたどり着くと、そっとドアに手をかける。力を入れると、鍵は掛かっていなかったのか、ラの音をたてながら簡単に横へスライドしていった。  ニキアスは廊下の先のドアの向こうにいた。  シンシアが目覚めた場所。  壁一面に本棚のようなものがあるだけの広い空間。  その真ん中にぽつんとある寝台の前に、ニキアスはいた。 「……ニキアス?」 「!」  シンシアの声はホールに響いた。 「シンシア…」  振り返ったその表情は、まずい、という感情が見える。 「ごめんなさい、着いてきちゃった」 「…いや…」  口元を覆って何か思案しているニキアスは、少し押し黙ってからひとつ決意したように居住まいを正した。 「シンシア、歌うのは、好きか?」  突然、今更のような質問をされてシンシアは戸惑う。  歌うのは、好きだ。 「…ええ、好きよ」  その言葉を聞いて、ニキアスは吹っ切れたように笑った。 「そうか」  その笑顔に、シンシアの脳が、ジリジリと焼けつく。その小さな痛みは段々と強くなり、頭をすべて覆い尽くすほどの頭痛になる。 「…、いた…っ」  思わず蹲る。きつく閉じた瞼の奥がチカチカと明滅した。 「ど、どうしたシンシア!?」  ニキアスも横にしゃがみこみ、背中に手を添えてくる。 「あ、あたま……」 「痛いのか」  察したニキアスはすぐさまシンシアを抱えあげ、傍の寝台へと寝かせてくれた。  シンシアは頭痛に顔を顰めながらも頭の片隅でデジャヴを感じる。いつかもこんな風に、不安そうなニキアスの顔を見上げていた気がする。  そう、確か、私が長い眠りにつく前。  ――眠りにつく前?  違和を感じて、記憶の断片を必死でかき集める。ジリジリと脳の焼き付いた部分から、殻が剥がれて記憶が顔を覗かせているような感覚だ。新しい記憶が現れる度に痛みも徐々に引いていく。  おかしい。私は確か隣国のコンサートホールで頭を強打され意識を失ったはず。  ここで意識のあるまま長い眠りについたという記憶と、齟齬がある。  ――いや、違う。そうだ、私は、望んで十年の眠りについたのだ。 「ニキアス……わたし……」  思わずニキアスの白衣の袖を掴む。  不安そうだった彼の表情が、優しいものになる。  その表情の移ろいさえも、懐かしい。  そうだ、あのコンサートの少し前。 「ニキアス、わたし決めたわ」  学術論文の束を手にしたまま、ニキアスの部屋でそう決意した。 「シンシア、でも……」 「わたし、ニキアスを信じてるもの。わたしが眠りについている間に、絶対、この病気を治してくれるんでしょう?」  二十歳間近の秋、自身が難病に侵されているということを知った。脳が萎縮し記憶を司る部分に影響を及ぼすことで、生きてきた全ての記憶を失う病気だ。  ニキアスが医学部の研究室で学んでいたのは、冷凍保存――いわゆるコールドスリープというものだった。身体の機能をそのまま残して冷凍保存する。その話を聞いたことがあったシンシアは、ニキアスがいつも大事に読み返していた権威の論文を持ちあげた。 「わたし、絶対にニキアスのことを忘れたくないの。歌はわたしの身体に染み込んでいるけど、ニキアスとの幸せな思い出は……忘れちゃったらきっとわたし、死んでしまう」  ニキアスは眉間に皺を寄せて、固く目を閉ざす。 「わたしが全て忘れてしまう前に……記憶が確かなまま、眠らせて」  その後開いたニキアスの瞳は、固い決意に満ちたものだった。 「わかった。絶対に、治す」  そうしてこの病気と計画のことは二人だけの秘密にして、紛争に乗じたコールドスリープ計画を実行することにしたのだ。  意識を失ったフリをしてこのストゥーパに二人きりでたどり着いた時、もう後には戻れなくなっていた。もちろん戻る気もなかったが。 「ニキアス、しばらく寂しくさせちゃうけど…待っててね」 「……何言ってる、毎日会えるよ」  寝台にあがってシンシアが言うと、ニキアスは笑ってそう言った。そうだった、ニキアスはシンシアの病を本気で治すために頑張ってくれるんだった。 「ありがとうニキアス。――愛してるから」  コールドスリープという大それた計画に少し不安そうにしていたニキアスだったが、そのシンシアの言葉で、ふっと優しい笑みを浮かべた。 「俺も……愛してるよ」  しばしの別れだ。  横たわって、服を整える。チャリティーコンサートの衣装のままだが、自分らしくて安心するからそのままで眠りにつくことにした。 「ニキアス」  シンシアは腕を伸ばす。ニキアスの頬に触れて、ゆっくりと笑んだ。 「眠りのキスを」  そっと触れた唇の感触を、絶対に忘れない。  透明なドーム状のケースが閉まり、すっと訪れた眠気に意識を任せる。  夢は見ないらしい。  それはそれでいいかも知れないと思った。 「……目覚めのキスを貰ってないわ」  眠りについた時と同じように、ニキアスの頬に手を伸ばす。  目を大きく見開いたあと、ニキアスは珍しく涙を浮かべた。シンシアの手に、自分のそれを重ねる。 「治せなかったかと思った」 「…ごめんね、心配かけちゃった」  ニキアスがゆっくりと近づいてくるのでそっと瞼を閉じる。  あの時触れたよりも、もっと温かくて優しい気がした。 「おかえり、シンシア」 「ただいま、ニキアス」  ようやく本当の自分になれた気がして、シンシアは心からの笑みをこぼした。 『忘れてしまう前に、眠りのキスを』
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