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そろそろ夕日が傾きはじめる刻限だ。
源義経は法華経を写経する手を止め、傍らに目をやる。そこには小さな童子が子犬のように丸くなりすやすやと眠っていた。掛けるものが無かったので義経の上衣を一枚かけてやっている。
童子は派手ではないがいかにも質の良さそうな衣を着、あどけない寝顔にもどこか品がある。名は万寿、数えで6つ。奥州の御館藤原秀衡の嫡男、泰衡の息子である。
義経にとって二度目の平泉。戻ってきてみたら昔ここを飛び出して行った時にはいなかった子どもが生まれていた。
万寿は初めて会った時からすぐに義経になついた、父親とは大違いである。
今日も従者に連れられて衣川の義経の館に遊びに来ていた。万寿が衣川の義経の館に遊びに行くのを泰衡はあまりよく思っていないことを義経も薄々気づいていたが、何も気づいていないふりをして万寿を歓迎する。
お遊び程度に弓を教えてやり、与えた菓子を食べると万寿は眠ってしまった。戸惑う従者たちを隣室に下がらせ、そのまま寝かせておいてやる。
義経は子どもは好きでも嫌いでもない。どちらかと言えばあまり相手にしたくはない。しかしなついてくる万寿は可愛かった。泰衡の息子だと思えばなお可愛い。
……それに、あのお方もこのくらいであられた……
(ま、そろそろ起こしたほうがいいか。日が暮れてしまう)
義経は軽く万寿をゆする。ぅん、と愛らしい声を上げ、眠そうに目をこすりながら起き上った。
「おはよう万寿」
「……おはようございます、九郎のおじちゃん」
「……九郎おじさんじゃなくて、九郎お兄ちゃんな」
「う、うん、九郎おにいちゃん」
六歳児に実に大人げない注文をつける。義経が軽くすごんだせいか万寿はちょっと怖がったようにも見えたが素直に訂正した。
「もう帰りなさい。これ以上いると暗くなる」
万寿はえ~、と声をあげ口をとがらす。
それにしても、まだ幼いながらこうしてみると万寿は実に父親によく似た顔立ちだ。大きくなったらそっくりな外見になりそうである。
義経はもちろん童子の頃の泰衡は知らない。泰衡がこんなふうに自分に向かって素直に笑いかけることも絶対にない。だいたいが仏頂面で、近づくと避けて、せめて息子の半分の半分くらいでも素直になればいいのに。
「九郎おじ……おにいちゃん、きょうもおはなししてくれなかったぁ」
「何のお話し?」
わかってはいたが、義経はあえて知らないふりをした。
「へいけとのたたかいのおはなし! 九郎おじちゃんすごかったんでしょ! みんないってるよ。えっと、なんとかのなんとかおとしとか、はっそうとびとか。それでいつもかってあのへいけをほろぼしちゃったんだよね!」
万寿は目を輝かせながら義経を見つめてくる。平和な平泉で育ったとはいえやはりこの子も男の子だ。戦ごっこや戦の話が人並みに好きなのであろう。
平泉も内乱の動向は当然注視しており、独自に情報を収集していた。義経が平家とどのように戦ったのか、かなり知れ渡っている。特にその活躍ぶりは多少の尾ひれをつけ、面白おかしく人々の話の種にもなっていた。
そういう話を大人たちから漏れ聞いていたであろう万寿からすれば、そんなわくわくする話の“英雄”義経が目の前にいるのが純粋に嬉しいのであろう。ぜひとも戦さのいろいろな話を義経自身の口から聞きたいと思っているに違いない。
だが平泉の泰衡の館であれ、この衣川の館であれ、義経は万寿に平家との戦の話をすることはなかった。
「ねえねえ、いつおはなししてくれるの? こんどあそびにきたときしてくれる?」
「しないよ」
義経はあっさりと言う。
「ええ! なんでなんで?」
「楽しい話じゃないんだよ」
万寿の頭を撫でながらむしろ優しい声で義経は言った。万寿はもちろん納得のいかない顔をしている。この子にわかるとも思えないし、わからないままの方がいい、と義経は思った。
「いろんなことが……そういろんなことがあったんだ。話すようなことじゃない」
平氏の赤旗が次々と海に投げ捨てられる。すでに戦いの趨勢は決し、源氏方に投降しようという平氏方の諸武将が旗を海に投げ捨てたのだ。さながら海が紅葉に染まったかのようである。
そこに艶やかな花が散る。平家の女や女房が煌びやかな衣裳をまとったまま次々と海中に身を投じていく。
義経はただ御座船を目指していた。そこに幼い先帝と神器がある。しかし、御座船のすぐそばまで辿りつきながらそれ以上近づくことは叶わなかった。平氏の家人らが最後のすさまじい抵抗をして義経の行く手を阻む。御座船の者たちに最期を遂げさせるために。
ふと義経は御座船の船頭の人影に気づいた。尼姿の女と彼女に抱えられた童子。この戦場にいる童子など先帝以外にありえない。
「帝」
義経はすでに彼が廃位されているのも忘れて呼びかけた。その声が聞こえたわけでもなかろうが、先帝はちらりと義経の方を見た。その顔が一瞬、万寿と重なる。
次の瞬間、先帝が彼を抱えた二位尼ごとふわりと宙に浮いたかと思うと、そのまま海中に没した。あの子はまだ数えで8つであった、それを自分達は……。
「九郎のおじちゃん?」
万寿に呼びかけられ義経は我に返った。いつの間にか万寿が膝の上に乗り不思議そうな顔で見上げてきている。
「どうしたの? どこかいたいの?」
「……なにも」
義経は無理に笑顔をつくる。その笑顔は少し歪んでいたかもしれない。
「万寿」
「なあに?」
「君は何も知らないから聞きたがる。源氏と平氏の戦いを。でも、あの戦いには英雄も感動的な話も何もない。ないんだよ」
「……」
万寿は当然ながら意味がわからないようだ。しかし分からないながら、耳を傾けているのを見て義経は続けた。
「でも一つだけ、教えてあげよう。今はなんのことかわからなくても聞いておきなさい」
「うん」
「浪の下に都なんてない」
万寿はこれ以上ないくらい首を傾ける。その小動物のような愛らしさに義経は思わず微笑を浮かべながら続けた。
「なあ万寿、これから君の身に危ういことが起こる時もあるかもしれない。誰かがもうだめだからと、それが君のためだからと、君を抱き上げて暗い海の中に沈もうとするかもしれない。……でもその時は、その手を振り払って逃げなさい。君一人だけでも」
二位尼を責めているわけではない。自分を含めあの戦に関わりのあったすべての大人たちがよってたかって幼帝を追いつめた。
幼帝だけではない。義高、大姫そして自分と静の赤子……どれだけの子ども達が大人達の身勝手な都合で振り回され犠牲にされてきたことだろうか。
そして戦の気配はこの平泉にも近づきつつある。
直接の原因はほかならぬ自分だが、秀衡が言うには事態は義経を差し出せば収まるという話ではないという。元々源氏は百年も前から奥州の地を狙っていたのだ、情勢が急展開する中でいつか攻めてくることは避けられなかったのだと。
「万寿、これから私も君の祖父も君の父親も奥州の武士たちもそれぞれやらなくてはいけないことができると思う。でも、君がそれに付き合う必要はないんだよ。もし安全な場所じゃなく、危険な方へ君を連れていこうとする大人がいたら、迷わずその手を振りはらい振りかえらずに全力で逃げなさい。二度と海の底に沈められないように。そして明日が来るのを待ちなさい。それが君がやるべきただ一つのことだ」
万寿はもうこれ以上傾きようがないと思っていた首をさらにかしげ、体勢を崩してこてっと倒れてしまった。義経はくすくす笑いながら抱き起してやる。
「今は分からなくても忘れるなよ。君の父君もきっとそう願っている」
「ほんと?」
「きっとそうだよ。でも泰衡殿も立場があるからね。自分の口からは言えないよ。だから私が代わりに言ってあげた。あ、このことは泰衡殿には秘密だぞ、わかったね」
「うん、じゃあ九郎おじちゃんと万寿とのひみつだね」
「お、に、い、ちゃ、ん、な」
(終)
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