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カレの人生の少しの部分だけで良いから、心かさねることを許してほしい
仕事から帰り、ジャケットも脱がずにベッドに倒れこむ。
前のオトコと暮らしていた時には手狭に感じたこの部屋も、独りになってしまえば何とも広くて寒々しい。
ベッドに突っ伏したまま、バッグからスマートフォンを探ってメッセージを見る。こんな時間に、着信なんてあるはずもないのに。
時計を見やれば、針が九時をさすところだった。カレはもう家族のもとへ帰りついただろうか。奥さんが作った夕食を食べている頃か、それとも目尻をさげて子供たちの頭をなでている頃か……。
不倫なんてまっぴらゴメンだ。今だってそう思っている。
けれども、好きになってしまったのだから仕方がない。
燃えはじめた恋の火を消す方法なんて、ワタシは知らない。障害が大きいほどに燃えあがるのが、恋の炎というものらしい。パッサパサに乾いていたワタシの恋心はきっと、音をたてて盛大に燃えあがることだろう。
上司との恋におぼれるだなんて、我ながらどうかしている。
いまの部署に異動して三年。思いかえしてみればカレは、甲斐甲斐しくワタシの面倒をみてくれた気がする。でも、上司と部下の関係からはみ出る気配なんてなかった。どうしていま頃になって、カレに恋してしまったのかが解らない。気がついたら好きになっていた……そうとしか言いようがないのだ。
ときおり見せる淋しげな笑顔に心撃ちぬかれたのか、新人たちにセクハラと揶揄される艶のある会話に惹かれたのか……。
もしかすると、単に寂しかっただけなのかもしれない。同棲していたオトコを追いだしたばかりだし、代わりにネコでも飼おうかなんて思ってたところだし。
カレはけっこうオジサンだし、お腹は出てないけどイケメンでもないし、それどころか前髪だって薄くなりかけてるし……。
でも本人は前髪よりも白髪を気にしてるのだけれど、そんなところも含めて可愛いなって思ってしまう。オジサン相手に可愛いってのも失礼な話かもしれないけど、そう感じてしまうのだから仕方がない。
ベッドの中で気取らないところだって好ましい。
耳元で愛の言葉なんて囁かれた日には、白けるどころか吹き出しそうになるのだけれど、カレは絶対にそんなことは言わないし、「気持ちいい？」なんて野暮なことを訊いたりもしない。
ただただ貪るようにして、ワタシの体を味わうばかりだ。そんな風に求められた方が気が乗るし、体だって応えるというものなのだ。
歳が離れているのに、話が合うのだから不思議だ。
もしかするとカレが話を合わせているのかもしれないけど、感じ方や考え方が似てるんじゃないかとは思う。ワタシが良いなって思うものはカレも良いって思うみたいだし、カレが好きなものはワタシも好きだ。
感性が近いってのは、大事なことじゃないかと思う。
同じものを見て、同じように感動して、同じ気持ちをシェアすることができるだなんて……これって、とっても素敵なことじゃないかと思うのだ。
お互いを見つめ合う恋愛よりも、一緒に同じ方向を見つめる恋愛の方が素敵だ。
……とは言え、不倫である。
恋は盲目とばかりに、カレを想って浮かれていたい。
でも悲しきかな、浮かれてばかりはいられない。カレには奥さんがいるし、子供だっている。現代日本の社会的ジョウシキってヤツから考えれば、決して褒められた関係ではないのだから。
でも、ジョウシキってヤツを無視して言わせてもらえば、カレは決して誰かの所有物ではないし、奥さん以外の誰かを好きになることだって自由なはずだ。
そして職場の部下が、うっかり惚れちゃうことだってあるだろう。恋心を抱いたからと言って、その恋心を受け入れたからと言って、誰からも咎められるべきではないのだ。
まぁ、身勝手な話だってことは、解っているのだけれど……。
ベッドから這いだして、ジャケットをハンガーにかける。
ブラウスを洗濯機に放りこんで、洗面台の前にたつ。鏡の中のワタシ、疲れた顔をしている……。
クレンジングを手にとって顔の上で弧をえがくと、マスカラやルージュが芸術的なマーブル模様になってオイルに溶けだしていった。
オイルを流してタオルに顔を埋めると、気持ちが少しだけ軽くなる気がした。
恋の始まりは晴れたり曇ったりの四月のようだ。
そう言ったのは、シェイクスピアだっただろうか。ワタシの心もカレを想って、イングランドの四月の空のように晴れたり曇ったりと忙しい。
ワタシからは通話もできず、メッセージのやり取りにも気をつかい、オフィスで顔を合わせちゃいるけど逢引すらままならず……恋の始まりだと言うのに時間だけはたっぷりとあるものだから、カレのことばかり考えてしまう。
おそらくワタシは、「奥さんと別れて」なんてセリフは吐かないだろう。奥さんからカレを奪いたい訳ではないし、ましてや子どもたちからパパを取りあげたい訳では絶対にない。
少しだけ……。ただ少しだけ……。カレの人生のほんの少しだけで良いから、心かさねることを許してほしいだけなのだ。
……許してほしい？
誰に許しを請うているのだろうか。
奥さんに？ 子どもたちに？
それともカレに？
いや、きっと自分に……。
誰からも咎められるべきではないなんて言ってみたところで、芽生えたばかりの恋心を咎めようとしているのは自分自身だ。
ワタシだって長い時間、ジョウシキの中で育ってきたのだ。「フリンハヨクナイ」って思ってしまうし、カレの家族に対する後ろめたさだってある。意外とジョウシキに囚われているワタシは、きっと無意識のうちに恋心を消そうと足掻いているのだ。
タオルに顔をうずめたまま、泣きだしそうになる。
ダメだ、逢えないとやっぱり、気持ちが揺らいでしまう。
タオルで目をこすって鏡をみつめる。鏡の中のワタシ。化粧を落としたワタシ。相変わらず、気の強そうな目をしている。
本当はそんなに、勝ち気ではないのだけれど……。
この先もきっと、自らの気持ちとジョウシキの間で揺れ動いていくのだろう。
でも、ジョウシキにばかり囚われるのはさけたい。所詮は多数派の共通認識でしかないのだから……。受け入れがたい価値観だってあるのだから……。
そう、ジョウシキにばかり構っている余裕なんてないのだ。
なんたって恋の始まりなのだから。
カレのことを想って、晴れたり曇ったりと忙しいのだから。
(了)
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