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そこで、脚の傷が癒えると我は早々、カテドラニアのムン・サラット山籠にあるベネッセクト会修道院を訪れ、聖堂に祀られる有名な聖母メイアー像に武具を捧げると、世俗の人生に永遠の別れを告げた。
そして、修行生活の最中、白死病の流行と打ち続く戦で荒廃したマンザラという街に立ち寄った折、そこにある洞窟に籠って瞑想を行った我は、独自の工夫を加えた瞑想法によって神と心を一つにすると、ついには神の啓示を――即ち〝預言〟得るに至ったのである。
それは、イェホシアやジョバンネスコの預かったように明確な言葉ではなかったが、神は確かに〝遥か彼方の地へも足を運び、正しき教えを広めよ〟と我に仰られたのである。
……そうだ。今日、我に起こったことと同じなのだ……この瞑想法を行えば、誰しもが神と一つとなり、その教えを正しく理解することができる……。
この神と一つになる瞑想法を伝道する……それこそが、我が生涯の目的であると、この神秘体験を通して我は気づかされたのだった。
さて、その瞑想法であるが、我はこれを〝鍛霊〟と名付けた。肉体の鍛錬と同じように、霊魂を鍛えるものだからである。
いや、こういう言葉の端々に聖職者らしからぬ武骨さが出るのは、もともとが戦場を駆け巡っていた騎士見習いの出身だからであろう……。
まあ、それはともかくとして、この〝鍛霊〟で行うことはなにも真新しいものではない。
そもそも既存の修道会の修行においても、神の御姿の観想や黙想、神を讃える言葉の口祷や念祷、良心についての究明などはすでに行われているが、これをより効率的に体系化し、より神との合一に至りやすい形に練り上げたものが我が〝鍛霊〟である。
それは一日五回の瞑想を四週間に渡って行うもので、それは一週毎に修行の階梯が進行してゆく。
まず、第一週目は〝痛悔〟――即ち自らの罪の認識と心よりの懺悔。第二週目は〝救済〟――即ち開祖イェホシアが生前に行った救いの御業に想いを馳せること。第三週目は〝受難〟――即ちイェホシアが無実の罪で荊の冠を被らされて刑場へと向かい、磔刑に処された苦しみを自らも共感するという段階を踏んで行き、そして第四週目には〝復活〟――即ち磔刑において昇天の奇蹟を起こした後、弟子達の前に復活したイェホシアの御姿を観想することで、神と一つとなった〝はじまりの預言者〟の生涯を追体験するのである。
そう……我自身もこの〝鍛霊〟によるイェホシアの追体験を通し、怪我で騎士としての道を絶たれ、一度は死を迎えた己の魂を信仰の道に復活させたのであった。
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