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Many happy returns
店を開けるとすぐに、ドアから見覚えのある女性が入ってきた。セミロングの黒い髪、大きな瞳、華奢な肩、春色のワンピース。全身を瞬時に観察してしまうクセは、彼女と会わなくなってから身につけた特技だ。
「碧子?」
「あら、いらっしゃいませ、じゃないの?」
開口一番にそう言う彼女は全く変わっていない。最後に会ってから、ちょうど十年が経過している。
「誰もいないのね。ここ、座ってもいい?」
「どうぞ」
彼女はカウンターの中央の席に腰かけた。
「棚橋さんもこのお店も、全然変わってない」
「碧子こそ」
「もっとおばさんになってると思った?」
からからと笑う彼女を見て、安心する。別れたときの彼女は、いつも不安と疑心に満ちていた。それが自分のせいだとは気がつきもせず、俺はずっと彼女を傷つけていたのだ。
コーヒーができあがるまでの間、どちらも声を発さなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女がいつも飲んでいた、ブレンドコーヒー。
「おじいさまに負けてないんじゃない?」
口をつけたあと、彼女が視線を天に向けながら言う。この店は亡くなった祖父から引き継いだものだった。ブレンドは常連のお客さんからも評判がいい。
「誕生日おめでとう」
「……覚えてたの?」
彼女が目を見開いて驚く。
「職業柄、インプットされたらずっと覚えてる」
これは半分嘘で、半分本当だ。
「今、大切な人がいるの。私の誕生日をすごく大事だって言ってくれて……一生一緒にいたいと思ってる」
テーブル席との仕切りになっているサンスベリアに目をやりながら、彼女が微笑む。
「誕生日が嬉しいと感じたのはいつだろうって振り返ったら、棚橋さんを思い出したの。十数年前の今日、すごく幸せだったなって。それで……」
一瞬俺に顔を向けた彼女は、コーヒーカップを見たまま動かなくなった。
俺たちは十年前から何も変わっていない。お互いに一番言わなければいけないことを隠して、沈黙を別れの理由にした。
「私は……自分が楽になりたくてきただけなの。だから、ここから先のことは聞き流して下さい、マスター」
彼女はうっすらと涙を浮かべていた。
「彼には親友がいるんです。その人のお母さんが『過干渉』で、ずっと束縛された人生を送ってきたそうなんです。部活動や習い事を制限されて、進学先も就職先も全部決められて。友だちや恋人とも無理やり引き離されてしまうらしいんです」
俺の心臓は、もう驚くということをしない。通常営業のまま、彼女の説明に耳を傾けた。
「最初は耳を疑いました。そんなことあるわけないって思ってたから。でも、実際そういう親は存在してるそうです」
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