第一話 かけぬける

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 リリアンの父の話を聞きたかったが、ここまで来たのだから、ついでにほかの厩舎のようすも再確認してみようと考えた。さっきは外からのぞきみただけで、情報収集はしていない。  となりの馬屋は一番人気のラ・カール号。そのとなりはジョスリーヌが気に入っていた黒馬、アルスターだ。  どの馬もいったんは落ちついたようだ。死んだ馬はいない。  さっきジョイフルヌーンを診ていた獣医がかけもちしている。競馬場で雇っている獣医師のようだ。今日はあちこち走りまわって、たいそう忙しい。  調査したところ、倒れた馬はすべて、その前に水を飲んでいる。  だが、 「井戸の水? おれ、さっき飲んだよ」という男が現れた。男というか、馬丁の少年だ。まだ十歳かそこら。 「それはいつ?」 「えーと、周回のあと。馬を小屋に戻して、自分も喉かわいたから」  それでは、井戸に毒が入っているという推理は成り立たない。馬にだけ、どうにかして選別的にあたえることができるだろうか? 「ちなみに馬の水はそれぞれ馬丁が井戸にくみに行くのか?」 「うん。そうだよ。でくみに行く」  馬の水おけは小屋同様、競馬場の所有物だ。つまり、レースがない日もずっと、そこに置かれている。こっそり近づくことさえできれば、前もっておけのなかに毒をひそませることはできる。 (そういうことか)  馬にだけ毒を飲ませる方法はわかった。あとは誰がなんのために、それをしたかということだ。  ワレスが黙考するあいだ、少年がやけに親しくリリアンに話しかけている。 「ねえ、リリアン。騎手をやめるってほんと?」 「やめないわよ」 「えっ? でも、お金持ちの養女になって、貴族と結婚するって話だけど」 「あんなの断ったに決まってるでしょ」 「そうだよね! リリアンは天才だもんね」  気になる会話だ。 「リリアン」  呼びかけると少女はふりむく。かぼそい手足の小娘だが、たしかに美少女だ。  騎手なんていう先行きのわからない仕事をしているより、貴族の奥方におさまることができるなら、そのほうがいい。 「その養女の話、くわしく聞かせてくれないか」 「たいしたことじゃないの。わたしが騎手をしてるレースを見て、見初めた人がいるんだって。でも、もちろん断った」 「なぜ? 騎手なんて若いときしかできないし、人気商売だ。とつぜん、馬主がクビだと言いだすかもしれない」 「だけど、ジョイフルヌーンがいるあいだはいっしょに走りたいの。ジョイがもう競走馬としては年をとりすぎてるってわかってる。でも、ジョイは一戦ずつ、いつも気力をふりしぼってくれてるの。わたしや、みんなのために。わたしはジョイのその気持ちにこたえたい」  ジョイフルヌーンのことを話しているときのリリアンは、ほんとに輝いて見えた。  大人から見れば、良縁をことわるなんて、もったいない話だ。が、しかし、本人が心から望んでいるなら、それをするほうが幸せだろう。  見るだけのことは見た。  リリアンの父の話を聞きに帰ろう。  そう考えてひきかえした。厩舎の戸口で、よその馬屋から帰ってきた獣医に出会った。 「リリアン。今日のレースは中止だそうだ。もう帰っていいよ」と、話しかけてくる。 「いいえ。ジョイが立てるまで帰りません」 「それじゃ何日かかるかわからない」  ジョイフルヌーンは後遺症が残れば、そのまま処分されるかもしれない。リリアンはそれを案じているのだ。これでは片時も離れられない。  ワレスはたずねた。 「馬主は誰だ? 今ここに来ているのか?」 「たぶん。レースのときはいつも見にくるから」 「じゃあ、ジョイフルヌーンを引退させるなら買いとらせてくれと申しでてはどうだ? 現役馬でなければ、さほど高くはない」  ところが、背後から会話に割って入る者がある。 「それはできない。馬肉屋にひきわたす値段でも金貨三十枚はする。うちじゃ、とてもそんなに出せんよ」  ふりかえると、リリアンと同じ菫色の瞳の男が立っていた。リリアンの父だ。 「だが、毒を飲まされたんだ。馬肉屋にも売れまい。だとしたら半値には値切れる」 「だとしてもだ。残念だが、たくわえはもうまったくないんだ」  リリアンが悲しげに目をふせた。すると、父親が続ける。 「リリアン。おまえが養女になれば、そのくらいの金はさきさまが出してくださるぞ」 「……お父さんは、わたしがよその子になってもいいんだね?」 「それがおまえのためだ。お父さんはおまえに幸せになってもらいたいんだよ」 「わたしの気持ちなんて、ぜんぜん考えてない!」  リリアンは泣きながら走っていった。  そのうしろ姿を、父親は嘆息で見送る。  ワレスは彼に声をかけた。 「御しがたい年ごろだな。親心をさっぱり解しない。しかし、あの子はもう自分の足で歩ける」 「まだ子どもだ」 「あんたの気持ちはわかるよ。馬主からクビを切られれば、その日から路頭に迷う騎手なんかより、裕福な家庭の奥さまになるほうがいい。だからって、娘が兄妹のように大切に思ってる馬を殺そうとするなんて、やりすぎじゃないか?」 「なんのことだ? 私が馬を殺すだって? ジョイを? ジョイは私にとっても息子みたいなもんだ。まっさきにかけつけて胃洗浄したのは私だぞ」  男は顔を真っ赤にして憤慨している。ウソのようではない。てっきり、この父親が娘のために、ジョイフルヌーンを引退させようとしたのだろうと思案したのだが。  どうやら、それも的を外している。  何かのピースがたりない。
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