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雪と桜
幼い頃、雪は兄に抱っこされて、離れの桜を見に行った。
薄曇りのほの明るい昼下がり、離れの中から子どもが笑う声が聞こえていた。
笑って、時々ぐずって、また笑う。雪も小さな子どもだったけど、声の主はもっと子どものようだった。
離れの桜は吹雪くように舞っていて、雪は花びらをつかもうと手を伸ばした。
兄が小さな雪の手ごとぎゅっと抱いて、雪、大好きだよといつもの寝物語の終わりのように言った。
あの日出会えなかった子どもを、雪は今も風に遊ぶ桜の精だと思っている。
大学を卒業後、雪は兄の秘書の仕事を始めた。
兄は父の会社の経理を担っていて、その手助けをしてくれないかと雪に言った。
「雪、お疲れ様。食事に行こうか」
執務室で午前の仕事を終えると、兄は雪を労って席を立った。
オフィス街に建つ会社の近くには食事処がたくさんあるが、胃弱の雪のために、兄はなじみの店に雪を連れていく。
そこは少し甘いサンドイッチを売ってくれる店で、今日はハニーマスタードチキンがおいしそうだった。兄は雪が声をかける前に苦笑して、それを買ってくれた。
会社の中庭を見下ろしながら、執務室で二人、サンドイッチを食べる。
「株価の見方はだいぶ慣れたみたいだね。そろそろお金を動かしてみる?」
「私は動かすのは向いてないと思う。今だって兄さんの手助けになってるかもわからないもの」
「僕は雪を手放さないよ」
怒った姿も見たことがないほど兄は小さい頃から雪に甘かったが、いくつか許さないことがある。
「今は兄さんの言うとおりでいいから、まずお金を扱うことに慣れてみようか」
中庭に一人の男が入って来る。彼はもう六十を回る年齢だが衰えを知らない頑健さで、ふいに兄を見上げると会釈をした。
「午後から少し出るよ。雪はいつもの時間で上がりなさい」
父の秘書が兄に仕事を伝えるときは、兄は夜遅くまで帰ってこない。
雪は子どものような目で兄を見てしまったのだろうか。兄は立ち上がって雪を後ろから包むと、雪の頭をぽんぽんと叩いた。
「雪にはまだ早いかな。でもいつかは兄さんたちと一緒に仕事をしようね」
兄は小さい頃からよくそうしたように、優しい声音で雪をくすぐって笑った。
雪は黙々と電卓と帳簿をたどって仕事を終え、迎えの車に乗って帰路についた。
車の中で電話が入って、着信を見ると父だった。携帯を耳に当てて通話に出る。
「少し時間ができた。食事でもどうだ」
うん、行くと雪は返事をして、昼間兄が連れて行ってくれた店に向かう。
父は雪をみとめると目を和らげて、まだ少し寒いなと苦笑した。
「兄さんはちゃんと仕事を教えてくれているみたいだな」
雪のお気に入りのかぼちゃのスープが運ばれる頃、父はうれしそうに言った。
大丈夫、きっと出来るようになる。雪を安心させるように言って、父はうなずいた。
「それでいい。父さんは雪から目を離さないよ」
食事を終えて家に帰ると、父は先に車から降りて雪を車の中に残した。
父は秘書から耳打ちされて、しばらく何か考えているようだったが、ふと車の中の雪を振り向いた。
「おいで、雪」
車から降りるのをためらっていた雪に、父は自分で扉を開いて手を差し伸べる。
手を取った雪に、父は目を細めて笑う。
「そろそろ雪に仕事を教える頃かな」
兄から教えてもらっている仕事、たぶんそれはこの家の本来の仕事でないのを、雪は薄々感じている。
「でももう遅いから、今日はおやすみ」
父は雪から手を離して、暗闇に沈んだ渡り廊下を北に向かった。
便りのように、北の離れから風に乗って桜の花びらが届く。幼い日に足を踏み入れようとして、結局立ち入ることができなかった場所。
踵を返して自室に向かった。ベッドに横になって、眠気が訪れるのを待った。
灯りを消して薄闇の中に沈む。ふいにやって来た眠気の中で、少し夢を見ていた。
お母さんは、血と毒に耐えられなかったんだよ。いつか兄が話していたのは、もしかしたら夢の中のことだったかもしれない。
ただの仕事なんだけどね。お母さんは繊細な人だったから。父が少し悲しそうに言ったのは、たぶん現実のことだったのだろう。
でも離れに住む母の姿を一度も見たことがないように、今の雪はまだ父と兄の仕事を知らない。
夢が浅くなったとき、兄が部屋の外に立った気配がした。
雪、大好きだよ。兄は雪の頭をそっとなでるようにして言った。
きっと今も離れで生きている桜の精のように、今夜も檻のような庇護の中で、雪は眠りにつく。
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