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 厨房を入ってすぐ左手に、粗末な扉があった。若月はそのノブを握る前に立ち止まって言った。 「田切くん、あのマスターとウェイター、そして僕がドロシーと呼んだウェイトレス。あの三人の関係で何か気づいたことはなかったかね」  言われて田切は、記憶の断片を引き寄せつつ答えた。「そうですね、マスターはこの店の代表でしょうから、あの二人の上司にあたるはずです。そしてウェイターは、えっと…ドロシーに敬語を使ってたんで、ウェイターが一番下の後輩、となるでしょうか」 「だとしたら、ウェイターがマスターにタメ口をきいていたのは何故だろうね」  探偵の言葉に田切はまたもや気づかされた。「父子だからだ。ミカエルとそのお父さん」 「そう」 「じゃあ、ノーラは」  これを聞いて探偵は、先ほどと同じように爽快に笑い声を上げた。 「ノーラは店内にいたかもしれないし、いなかったかもしれない。オフでデート中に私服を着ていたとしたら、君は気づかなかっただろうな」  それ以上田切の質問に答える気はないらしく、若月はそれまでの勢いを取り戻し、扉を開けた。 「もうわかるね、田切くん。ここが、君が見事に構造を見抜いた階段室だよ」  若月が内側の壁をしばらく手探りすると、やがて内部の電燈がついた。  床、階段、内壁全てが塗装もない剥き出しの木で、施工されてから長い月日が経っているのは明白であった。  若月が遠慮なく上がると、踏み板一つ一つがざらついた悲鳴のような音を立てた。 「少し見て回ろうか」探偵が一階と二階の間の踊り場で止まり、壁にかけられた一枚の写真を示した。  田切にもそれが何を指すかわかり始めていた。「ミカエルのお爺さんの『絵』」 「そう」  モノクロの風景の中、スーツ姿で端正な顔立ちの男が、公衆電話の受話器を片手にどこかと通話している。説明を受けずとも、昭和中期頃撮られたものと、大体の予想はついた。 「この店の創設者、草下(くさか)源太郎という人物らしい」と探偵。「クライアントである、あのドロシーが前もって教えてくれたよ。  先月の末、ここで長年働いていた女将(おかみ)、野神京子氏が失踪したらしくてね。君もさっきテレビで見ただろう、大学生が誘拐されて何日か経ってからのことだったそうだ。  その間にあのドロシーも『部屋』で何者かに襲われそうになってね。不審に思った彼女が、私の事務所を訪ねてきた、とそういう流れさ」  「そうなんですか」という返事しか思いつかず、田切にはその後も探偵の背中が作る流れに身を委ねるしかなかった。  探偵は助手をつれて二階を通り過ぎ、やがて三階に到達した。 「ここは?」若月が半分顔を向けて訊いた。 「支度部屋、です」 「正解」  そこは、すすけたタイル張りの殺風景な部屋で、よくある飲食店のバイトが集まる休憩所という印象であった。  若月はそこに完全には入らず、ドア枠を(また)ぎながら、部屋の隅にある小さなゴミ箱を指差した。 「あれに空き缶が捨てられていて、その中に例の紙切れが入っていたそうだ。田切くん、どのタイミングでミカエルが『ヤカンに紙切れを入れた』か。それは後で自分で考えてみるといい」  若月は助手の肩をぽんぽんと叩きながら、次に二階へと引き返した。  二階の部屋では、グレーのデスクに無数の書類が投げ置かれていて、雑然とした印象を与えた。  店の事務所であることは明らかだったが、もはや田切もそれを確認しようとはしなかった。 「まだ残りがあるんじゃないかな」  若月はそう言いながら、散らかった机の上や、古びたファイルがぎっしり詰まった書棚を引っ掻き回していった。 「これだ」  やがて助手に向き直った探偵の手には、何枚かのしわくちゃの半紙が握られていた。紙の四隅には茶色い染みができていて、それが建物と同じくらいの年齢であることは容易に見てとれた。  そして裏から読めるのは、墨汁で書かれた「世の蒙昧を知らしむは人損によりて」の文字。 「創業者はよく考えたものだよ」探偵は呆れた様子でいる。「『世の中は、その人を失ってからでないと、その人の大切さに気づかないから、誘拐によってそれを気づかせてやろう』という意味に取れなくもないね。  要は悪徳レストランの目くらましさ。メニューとして提供する、才能ある人の脳を得るためのね。それはともかく、警察にも証拠を分けてあげないと」  若月は言い終えると、半紙を一枚だけ取り、内ポケットにしまった。それから、もう用済みとばかりに足早に部屋を出た。
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