イヤホントラップ

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 窓際の席で眠る人影に気がついて、私は教室に踏み入れようとしていた足を空中で止めた。  中途半端なフラミンゴのような体勢のまま、窓のそばに置かれた机に突っ伏す人を眺める。首の辺りまでで切り揃えられた、さっぱりとした髪型に見覚えがあったけれど、確信を得るために私はゆっくりと教室の中へ入っていった。  頭の中でピンクパンサーのテーマ曲を流しながら、音を立てないようにそろそろと歩を進める。窓から差す午後の光を浴びながら、穏やかな顔つきで目を閉じている人の様子が、近づくにつれて明瞭に見えてくる。  すぐそばまでたどり着いた時、その人の耳から白いコードが伸びていることに気づいた。音が鳴っているのかいないのか、イヤホンを着けたまま眠っているようだった。  鷹木さんだ。  肩に掛けたバッグからスマートフォンを取り出そうと右腕が動くのを、左手で掴んで止める。寝顔を許可なく勝手に撮るなんて、やってはいけないことだ。頭の中で理性的思考が叫ぶ。それは重々承知のことだけれど、心中にぽこぽこと湧き上がる撮影欲求はけっこう強く、荒れ狂う右腕を抑え込むのにしばらく時間がかかった。  脳内格闘の末、私は落ち着きを取り戻し、ふっと小さく息を吐いた。  呼吸を整えながら、改めて鷹木さんの様子を眺める。  しなやかな両腕を枕のようにして机に据え、そこに頭を乗せている。俯いていて顔の全体は見えないけれど、頭と腕の隙間から、つややかなまぶたが下りている様子が垣間見える。  私の席は今のところ鷹木さんの隣にあり、授業中に時おり横に視線を向けることがある。そういう時、たいてい鷹木さんは眠たそうに目を細めているけれど、実際に眠っている姿を見たのは初めてだった。  私はできるだけ音を立てないように、慎重な手つきで自分の席の椅子を引いて、横向きに腰を下ろした。机の中に腕を入れて、一冊のノートを取り出す。  今日の授業はすでに終わって、さっきまで私は帰宅の途中だった。このノートを置き忘れなければ、今頃もう自宅に着いていただろう。迂闊だったと気落ちしていたけれど、貴重な鷹木さんの寝姿を見られたと思えば、結果的に収支はプラスと言っていいかもしれない。  ノートをバッグにしまいながら、私は鷹木さんの耳元をじっと見ていた。丸っこい形の白いイヤホンが、穴を埋めるように陣取っている。耳から伸びるコードは、きっと上着の左側のサイドポケットへと続いているだろう。体勢のせいで今は見えないけれど、たいていいつも鷹木さんは、そこに淡い水色のスマートフォンを入れているはずだった。  授業以外の時間、少なくとも教室で見る限りでは、鷹木さんはイヤホンを着けていることが多い。鷹木さんと親しくなろうと試みるクラスメイトは何人もいるけれど、イヤホンを着けられてしまうと話しかけづらく、今のところ誰も大した成果を挙げられていない。  私は隣席という地の利を活かして、授業終了直後からイヤホン装着までの僅かな時間に話しかけるという技をたびたび使っている。おかげで他のクラスメイトに比べれば、多少なりと鷹木さんと交わした言葉は多い。 「いつも何を聞いてるの?」  鷹木さんが手に取ったイヤホンを指さして、そんな質問をしてみたことがある。鷹木さんは少しの間考え込むように黙った後、微かに唇を歪めて「4分33秒」とだけ答えた。  その時は知らなかったけれど、「4分33秒」というのは4分33秒間無音が続く曲らしい。要するに私は鷹木さんにからかわれたのだった。  鷹木さんの返答はいつもそんな風に、はぐらかすか素っ気ないかで、思うように会話が続いた試しがない。本当はあの白いイヤホンからどんな曲が流れているのか、私はずっと気になって仕方なかった。  そのイヤホンが今、目の前にある。  ノートをしまい終えた右腕が、そろそろと鷹木さんの耳へ近づいていく。右腕の怪しい挙動を中止せよ、と自制心が告げた。私は動きを止めたけれど、腕を引っ込める気にはなれなかった。  あのイヤホンを外して、自分の耳に着けたとしたら。スマートフォンが今も曲を鳴らしているとしたら。あの時得られなかった答えの、あるいはほんのひとかけらが、今こそ手に入るかもしれない。  鷹木さんは眠っている。ただ目を閉じているだけなら、近くにいる私の気配に気づくだろう。何の反応もないということは、ぐっすりと眠り込んでいる証左だ。イヤホンをそっと外すだけなら、気づかれない可能性は高い。  行動を正当化する理屈が頭の中であっという間に組み上がっていく。人道にもとる行為だと反対する思考も浮かんではいたけれど、私の耳はそんな自制の声よりも、鷹木さんの好きな音楽を聞きたがっていた。  私は椅子から腰を離し、眠る鷹木さんの傍らにしゃがみ込んだ。  頭の中でピンクパンサーのテーマ曲を再演しながら、右手をじりじりとイヤホンの方へ伸ばしていく。遅い動作と反比例するように脈拍は加速し、首筋に汗の雫が浮き出る。  綺麗な曲線の輪郭を描く耳と、そこへ僅かに掛かった繊細な髪先を凝視していると、とてつもない大罪に手を染めている気分になった。  それでも手の動きは止まらず、イヤホンの間近まで迫っていった。  私は唾を飲み込み、白く丸いイヤホンを親指と人差し指でつまんだ。弱く力を込めてそうっと引っぱると、イヤホンは住み慣れた穴ぐらを離れ、私の手中へと移住を果たした。  私は細く長い息を吐き出した。震える指で自分の耳元にイヤホンを持っていき、イヤーピースを穴に潜り込ませた。  イヤホンが鳴らす音が鼓膜に触れる。何らかの旋律が流れてくるのを予想していたけれど、聞こえてくるのはざあざあというノイズのような音だった。  耳ざわりなノイズの中に、抑揚のない合成音声のようなものが混じっている。よくよく聞いてみると、それは一つの言葉を何度も繰り返しているようだった。 「盗み聞き 盗み聞き 盗み聞き 盗み聞き 盗み聞き 盗み聞き……」  驚愕と恐怖の大波が心中を荒れ狂い、口から「ぴぃっ」とスズメが叫ぶような声が漏れ出た。私はイヤホンを掴み、素早く耳の外へと引っぱり出した。  静寂が戻る。  ぜいぜいと荒い息を吐き出していると、イヤホンを持つ右手の手首が、別の手によって掴まれた。  まぶたを開き上体を起こした鷹木さんが、星空のように澄んだ瞳で、私の目を真っ直ぐに見ていた。  私はほとんど反射的に、「ごめんなさい」と甲高い声で絶叫した。 「相沢さんが引っかかるとはね」  く、く、と笑い声を含む息を吐きながら、鷹木さんが言った。 「本当は、別の奴に仕掛けた罠のつもりだったんだけど。人のイヤホンを勝手に着ける不届き者が、まさか他にもいるなんて思わなかった」 「ごめんなさい……」 「もういいって。さっきからそれしか言ってないよ」  鷹木さんは愉快げな調子で言った。凛として涼やかな切れ長の目を細め、屈託のない笑顔を見せている。普段見られない貴重な表情をじっと見つめながら、私は罪悪感と共にお得感も味わっていた。 「隣のクラスに、いつも一緒に帰ってる友達がいてさ。そいつ今日は放課後に用事があって、それが済むまでここで待ってるんだ」  鷹木さんの言葉を聞いて、私は目を見開いた。教室で一人静かに佇む印象が脳裏に刻まれていて、親しい友人がいるとは想像したこともなかった。 「そいつ、よく私のイヤホンを勝手に片方取って、自分の耳に着けるんだよね。で、ちょっと悪戯してやろうと思って、あんな仕掛けをしたわけ」 「じゃあ、教室に来たのがその人じゃないって、気づいてなかったの?」 「違うかもとは思ってたよ。あいつにしては静かすぎたから。まあ、他の人なら何もせず出ていくだろうから、別に問題はないと思ってたけど、見通しが甘かったね」 「ごめんなさい……」  もう何度目かも分からない私の謝罪に、鷹木さんはくすくすと笑って応えた。  楽しげに体を震わせる鷹木さんを見ながら、私はまだ見ぬ隣のクラスの人に羨望を抱いた。その人はきっと、こんな風に悪戯っぽい鷹木さんの一面を、私のような暴挙と幸運に頼らなくても、当たり前に間近で見られるのだろう。  イヤホンの音は聞けたけれど、本当に聞きたいことはまだずっと遠い。  もっと真っ当な方法で親しくなって、いつか鷹木さんの口から、好きな音楽のことをきちんと聞かせてもらおう。  窓から注ぐ陽光に包まれ、眩しいほど煌めいて見える笑顔を眺めながら、私はそんなちょっとした目標を、改めて胸中に抱いていた。
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