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 そんなある日のことだった。  珍しく、その老婦人が夕食にあたるような時間に、ヤマブキを訪れた。  梓はちょうどカウンターの奥でまかないを食べていたところだった。  老婦人はいつものように洋二に会釈をしてから、一言添えた。 「今日は、イチゴソーダフロートだけで」  梓からは洋二の背中しか見えなかったが、その身体はかすかに揺れたように見えた。  動揺、というほど大袈裟なものではないが、ちょっとした戸惑いに似た感情がそこに現れているように見えた。  いつもの席で、ゆっくりとイチゴソーダフロートを飲む老婦人は、なんだかいつもと纏っている空気が違っているようだった。  いつもは落ち着いた品の良い雰囲気なのだが、まるで、イチゴソーダフロートをキャッキャと撮影する若い女性たちと同じように、華やいだ雰囲気に見えたのだ。  コーヒーを頼まなかったことから、もしかしたら新しい恋でも始まったのかな、などと梓はついつい想像力を働かせてしまった。  自分がまかないを食べ終わると、今度は洋二の番になるので、交代のためにちょっとバタバタしていたあいだのことだった。  老婦人の姿が、いつの間にか消えていた。 「おじいちゃん、あの人、いないよ」  梓が指摘すると、洋二は席を確認しに行った。しばらく周辺を色々と調べていたが、そのまま、戻ってくる。 「どうだった」 「わからん。席を外してるだけかもしれないし、もうしばらく、あのままにしておくか」 「まさか……食い逃げ?」  声を潜めて梓が訊くと、洋二は慌てて首を振った。 「そんな人じゃないと思うよ」 「うん、まあ、そうは見えない人だったよね……」  あの上品な雰囲気からして、お金に困っているような人物には見えなかったし、なにしろ、洋二ががっかりした表情をしているのが見ていられなくて、梓はそう答えるしかなかった。  しかし結局、閉店時間になっても、老婦人は姿を現さなかった。  途中まで飲まれたままになっていたイチゴソーダフロートを片付けたのは、梓だった。  カウンターを拭いている洋二は、肩を落としていて、なんだか一気に老け込んだように見えた。 「なにか事情があったのかもしれないよ」  そう声をかけると、小さく頷いた。  ただ、納得したというよりは、そうとでも思わなきゃやってられない、といった様子ではあった。  梓にしても、洋二をこれ以上落ち込ませたくなくてそういう言葉をかけたのだが、実のところ内心ではけっこう腹を立てていた。  そして、その日から、老婦人が姿を見せることはなくなった。
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