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それから、二週間ほどたった頃だった。
いかにもお堅い職業についているといった感じの、仕立ての良いスーツを着た中年男性が、店に入って来てカウンター席についた。
その見かけから、てっきりコーヒーを頼むものと勝手に予測していたらイチゴソーダフロートを注文したので、その日も手伝いに来ていた梓は、不思議に思いながらも洋二に伝えた。
それを出したとき、男性が洋二に話しかけたのが聞こえた。
「母が、このイチゴソーダフロートをとても気に入っていたようなんです。それで、一度ぜひ飲んでみたくて、初めて来てみました」
その男性の母親の年齢の女性となると、あの老婦人の姿が真っ先に思い浮かんだ。
たぶん、洋二もそうだったのだろう。
「もしかして、着物をよく着ておられた方ですか」
そう答えたのに、男性が目を輝かせた。
「そうです、そうです。この店に行くときには、いつもお洒落をしていたんです」
「そうですか。光栄ですね」
「若い頃に亡くなった父との想い出のメニューだったとかで……。タウン誌かなにかで、イチゴソーダフロートが復活した、と知ってからは本当に喜んでいました」
「ああ、いつも、それを注文して下さってましたね」
「入院しているあいだもずっと、このお店でイチゴソーダフロートを飲みたい、飲みたい、と何度も言っていました。でも外出できるような病状じゃなくて、叶いませんでした。それで手向けの意味も込めて、僕もぜひ飲んでみようかと思って、来てみたんです」
「手向け……?」
「ああ、あの、母はここ1ヶ月ほど、入院してまして……。結局、そのまま亡くなりました」
「ああ、それは、その……。ご愁傷様です」
「ご丁寧にありがとうございます。最後はあまり苦しまずに、父が向こうでコーヒーを飲みながら待ってるのが見える、と言って、笑顔でした」
男性はそう言って、ゆっくりと時間をかけてイチゴソーダフロートを飲み干し、満足そうな表情で帰っていった。
「……ねえ」
その姿を見送り、食器類を片付けながら、梓は洋二にふとした疑問を投げかけた。
「さっき、入院1ヵ月、って言ってた?」
「うん」
「あのさ……。このあいだ、あの女の人が来て、イチゴソーダフロートだけ注文したときってさ……。入院してたはずの期間だったってことだよね?」
「そうだなあ」
洋二の気の抜けた反応に、梓は驚いた。
「じゃああれ、生霊とかそういう類のものだったってこと?」
畳みかけるように訊いたが、やはり祖父の表情は変わらなかった。
「そういうことも、あるのかもしれんなあ」
「えええ?」
思わず梓は変な声を上げる。
すると洋二は、天井を見上げながら、ぼそりと言った。
「店の名前のせいかもなあ」
「んん?」
思いもかけないことを言われて、梓は面食らう。
「ヤマブキ、って、花の名前なんだけどな」
洋二は言葉を続けた。
「単にヤマブキが好きだったから付けた名前だったけど、後から聞いた話だとな」
ヤマブキの花は、梓も知っている。黄色い小さな花を、垂れた枝に沢山咲かせる低木だ。
「ヤマブキは、あの世に咲く花でもあるそうだ」
「えっ」
思いもかけなかった話に、梓は声を上げる。
「だからもしかしたら、この世とあの世の狭間のようになってしまうことがあるのかもなあ」
ではあの老婦人は、あの世へと旅立つ前に、魂だけでこの店にやって来たというのだろうか。
そして、あのときだけ、コーヒーを頼まなかったのは。
すでにもう、あの世の夫の姿が見えていて、コーヒーを頼む必要がなかったからなのか。
いやいやいや、と、梓は自分の思考に対して、首を振った。
そんなこと、にわかには信じられない。
信じられない、けれど……。
いつものようにコーヒーをドリップし始めた、祖父の落ち着いた風情には、妙に説得力があるような気がした。
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