あの日を遠く離れ

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1995年(平成7年)1月17日5時46分 2004年(平成16年)10月23日17時56分 2011年(平成23年)3月11日14時46分  記憶の中に刻まれた数字がある。    日本が揺らいだ日。  それはいつも妙に寒い日だった。  平成7年、私はまだ東京にいた。アパートの一室で見たテレビの画面の向こうでは、まだ暗い夜の街にいくつもの火柱が上がっていた。 〈阪神淡路大震災〉  繰り返される発生時からの記録映像とリアルタイムの被害を伝える映像。  延焼を続ける焔の揺らぎと崩落した高速道路のひしゃげたコンクリートが只事では無いことを伝えていた。  それでも、西の都市で起こった震災は私にはまだ遠いものだった。  平成16年、私は郷里に帰っていた。秋の半ば、冷えをひどく感じる日に谷川岳の反対側で地面が揺らいだ。 〈新潟中越地震〉  発生直後に携帯を手に取る。時間を置くと通信が集中して繋がらなくなる、という同僚のアドバイスだ。  新潟県長岡市には、弟が住んでいる。  母は東京に旅行中。自分は無事だという弟の声にとりあえず安心する。  必要なものを聞き、宅急便の手配をする。何より一番は『水』。そして食料。  同時に、翌日、職場から経験豊富なメンバーが選出され、チームが結成された。  地元の消防本部で非常勤だった私は、緊急援助隊として現地に向かうレスキューチームのオレンジの制服を見送った。  中越は土砂崩れ、岩盤崩落のニュースが相次いだ。ニュースの画面の向こうで見覚えのある背中が危険な現場で救出に挑む姿を無事を祈りながら見守った。  弟から届く報せは比較的被害の少なかった地域で、避難所の人の手伝いをしている、というものだった。  そして、2011年3月11日 〈東日本大震災〉  経緯は省くが、私は職場のスーパーの厨房にいた。  休憩を終え、午後の分のコロッケを揚げ足すために、フライヤーに点火して、一回、二回目を揚げ終わった頃だろうか。足元が小さく揺らぎ始め、揺れは次第に大きくなった。 「ヤバいね。一旦、止めよう」  先輩と頷き合い、フライヤーの元栓を閉める。揺れが大きくなる。  休憩室にいたチーフが駆け込み、入り口で叫ぶ。 「火を消して!避難!」  通路を走る間に揺れは大きくなる。背後で棚がけたたましい音を立てて倒れる。  隣の公園に集合し、直後に身内に『無事』の連絡を入れる。職員は全員無事。懐中電灯を手に停電した店内に入り、店内に取り残された客を避難誘導する。  解散して帰宅するが、電気、水道、ガスーインフラは全て止まっていた。  3月にしては寒すぎるその日、海辺の街が津波に逢っていることを知らなかった。知ることができなかった。  翌日、職場から5分程度の距離に住んでいた私は定時に店舗へ。  店内からパンやパック入りの白飯、その他、腐敗の心配の無い食料品や飲料を運び出し、外に設置したテーブルに並べる。  半値以下の価格で列を作る人々に販売する。かなりの人が寒い中を訪れては食料と乾電池やローソク等を必死で抱えて帰っていく。  店長の指示で帰りにはミネラルウォーターをひと箱6本と菓子パンが数個、有料だが確保されていることが有りがたかった。  帰宅して、夜七時頃に電気が復旧。初めて東北の津波の現状を知り、呆然となる。  その夜、友人からの着信が携帯に入った。 ーお店の店頭にミネラルウォーターが無くなった。購入できたら送って欲しいー  彼女の住まいは東京だ。  断水はしていないはず。 ー悪いけど、被災地だから。ここー  もらった水や食料は隣近所の高齢者や児童に分けるので、精一杯。インフラの断絶した被災地の人間がインフラの無事な地域の人間に分ける物は無い。  彼女はそれでもなにがしか言っていた気がするが、通信を切り、彼女の電話番号を消した。最低限の配慮の出来ない人間との関係は不要だ。  三日間、店頭で販売を続け、四日目に自宅待機の指示が出る。品物はほぼ底をつき、県内の倉庫や被害の少ない地域の在庫も無くなってきたのだ。県外との流通は極めて困難だった。  一方、私の勤務先は店内の破損が激しく、営業の継続が危ぶまれた。  一月後、道路が復旧した。  解職になった私は緊急雇用で県庁の非常勤になった。  部署は原発被災者の住宅支援。(まだ始まっていなかったが)希望を聞いて聞き取りの帳票を作っていく。  福島第一原発の爆発事故、メルトダウンによって故郷を逐われた人々。  国を責め、電力会社を責める言葉。ー自然は責められない、災害は責められない。  確かに『想定外』だったろう。人間の想定など、常に甘い。  だが不快だったのは、そこではなく、被災者を受け入れることを決定した後の、被災地から遠く離れた県民からの苦情。 ー放射能汚染は感染症ではないー  それを何度説明したろうか。洗浄に洗浄を重ねた後の移動であっても、放射能汚染を伝播されると騒ぎ立てる。  特に学園都市あたりの裕福な家庭の夫人がよく騒いだ。 ー車は放射能除去されてても、所持品には残っているかもしれないでしょ。お位牌とか......!ー  貴女は赤の他人の家に上がりこんで、位牌にまで触れるのか?ーと問いただしたくなったのは一度や二度ではない。  学識があると思っている人間、エリートの家庭を自認する方々が実に多かった。  中途半端な知識を振りかざし、オピニオンリーダーを自負する人間ほど愚かで厄介な者はいない。  やっと県北までの道路が復旧し、津波で土台ばかりになった家々を目の当たりにした時、つくづくと溜め息を吐いた。  当事者と傍観者の溝は深い。他人の痛みを想像出来ない人間が増えた今、次の震災に遭遇したら、都市の人間はどうするのだろう。  経験者である人々のアドバイスや援助にマウントを取ってきたと怒るのだろうか。  遭遇してみないとわからない事は多い。  だが、唯一言えるのは、災害の時に自分を生かすのは自分だ。そして隣人を生かすのも自分だ。  災害に直面した時、人は真価を問われる。皮肉だがそれは疑い難い事実だ。  津波に浚われて全てが喪われた街、未だに閉ざされた町、帰れない故郷の前に佇む人の思いは分からない。  けれど、そこに拭いがたい痛みがあり続けることを忘れてはいけない。  
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