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4.記憶の相違
ここまで話した所で晃一さんが口を挟んだ。
「あの時はお前が男だと途中まで気付きもしなかったよ」
母は教室の子達に口止めし、姉がそのまま出るということにして僕を出演させたのだ。
今はさすがに女には見えないが、中1の頃の僕はもっと細くて華奢だった。
「バレエやってる子はみんなガリガリで胸ぺったんこだからお前の胸が無くてもなんとも思わなかったしな」
「僕、まだ声変わり前でしたしね」
とはいえ、口調でバレないためなるべく喋るなと母に言われていた。
「リフトして降ろすとき手で股を掴んじゃってまずいと思ったらなんか付いててビックリしたなぁ」
「あはは……」
クララと王子の振り付けでリフトを繰り返す所があって、何度も上げて降ろして……とやっていたら僕がずり落ちかけた。そして滉一さんが落下を防ごうと股を掴んだため僕が男だとバレてしまったのだ。
「練習後問いただされてヒヤヒヤしました。役を降ろされるか、怒られるかと思って」
「ちょっと腹は立ったよ。男のくせに何やってんだってな。男子はそれでなくても少ないのに女の役やるなんて勿体ないだろ」
僕は本来なら主人公クララの弟フリッツ役をやるはずだったけど、そこに穴ができて他の教室の男の子を借りることになった。
とにかくそれくらい当時は男の子が少なかったのだ。
「でも、お姉さんのそういう事情があったなら仕方ないよな」
「はい……」
「でも、なんで俺の誘いを断った?」
「え?」
「ベルギーにお前が留学に来て、俺が所属してたバレエ団にオーディションの口利きをしてやると言ったのにお前は断っただろう」
「え……?それ、なんのこと?」
「何?!忘れたって言うのか?」
「いえ、そんな記憶ないです……」
あれ?どういうことだ?
滉一さんに会ったのは……クララ役で共演して以来今回の白鳥の湖がはじめてじゃなかったっけ?
「お前、もしかして頭打って記憶がおかしくなってるのか?」
「え……そうなのかな……?」
待って、なんだっけ?
「お前、アントワープのバレエ学校に夏休みだけ留学したのは覚えてるのか?」
「あ!ああ、そうか。留学した……僕、たしか母さんに言われて……」
高校卒業後の進路として大学に行くか迷っていたときのことだ。
大学に行くにせよこのままスタジオで働くにせよ、一度短期でも良いから海外留学したという経歴がある方が箔がつくと言って僕は無理矢理夏期講習にねじ込まれたんだ。そう、その時滉一さんが通っていたアントワープ王立バレエ学校にツテで参加させてもらったんじゃないか。
「あれ?でもその時の記憶が……僕、滉一さんに会った記憶がない……?」
「そうなのか?俺のせいで頭打って怪我をしたし、俺の記憶が抜け落ちてるって事なのかな」
滉一さんは僕を気遣うように見つめてきた。
「まさか、俺たちのこと全部忘れてるって事?」
ーーー俺たちのことってなんだろう?
「あの、僕はクララ役で最初に会ってからは今回白鳥のリハーサルで会うのがはじめてだと思ってました」
滉一さんは口に手を当てて目を見開いた。
「そんな……まさか」
「違うんですか?アントワープで会ってました?僕、思い出そうとしてもなんだかモヤがかかって……向こうでの記憶がぼんやりしていて……」
「だからそんな敬語で喋ってるのかお前」
「え?」
「夢の中だからかと思っていた。いや、これは本当に夢なのか?」
僕はふと空を見上げた。まずい、夜が明けそうじゃないか!月の光が無くなれば僕はまた白鳥に戻ってしまう。
「あ、僕もう行かないと。滉一さんも戻って!明日もまた来てくれる?」
「ああ、必ず来る」
「じゃあまた明日の夜ここで」
「わかった」
「あ!出来れば明日は何か食べるものを持ってきてくれない?お腹がぺこぺこなんだ」
「わかったよ。何か持ってこよう」
そして滉一さんは森の中へ消えていった。
それを見送りながら僕は湖のほとりで立ち尽くしていた。
ほとんど初対面だと思ってた滉一さんと、実は思った以上に面識があったってこと?
でも何も思い出せない。
アントワープでレッスンして貰ったとか?
そういえば、バレエ団に誘ってくれたとか言ってたな。僕なんかが海外のバレエ団になんて入れるわけ無いのに。
僕はたしかにベルギーに夏期講習で短期留学した。
でもすぐに帰って、結局大学に通うことにしたんだ。バレエコースのあるところで4年間学んだ。
そしてそのまま母のスタジオで講師をして今に至っている。バレエ団にすら所属もせずに、先生だけやってるんだよね。
そんなうだつの上がらない俺が、今やロイヤル・フランダース・バレエ団でプリンシパルを勤める滉一さんとその後も接点なんて持っていたのだろうか?
アントワープでの記憶が戻らないとそれはわかりそうもなかった。
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