01.天国に届くハシゴ

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01.天国に届くハシゴ

 その店の前を通りかかるとき、いつも心が少し沈んでしまうのはしかたない。背の低い古びた雑居ビルの一階の店のドアに、『閉店のお知らせ』と書いた紙が貼ってあるからだ。 「このたび、閉店することにいたしました。これまでのご愛顧、誠にありがとうございました」  そんな別離のあいさつは、冬の空気に凍える灰色のコンクリートの壁を思わせた。冷徹なほどに凍えたその壁は誰にも越えられないどころか、容易に触れることさえもできない現実を突きつける。  それでもそんな貼り紙には、別々の筆跡で「ありがとう」とか「また復活してください」と書き込まれてある。それはこの店に通っていた常連たちの書き込み。 「あの焼き飯、すごく美味しかったのにね。また食べたいよね」  マスク姿のまま、恋人が言った。そうだねとマスクの下で、僕は短くこたえる。僕と恋人マスク姿で近所のスーパーで食料や日用品を買い、一緒に暮らす部屋へ帰るところ。寄り道もできないまま。 「あの焼き飯は絶品だったのにね。自分たちじゃ作れないし」  僕の言葉に恋人は深くうなずく。あの店の焼き飯はたまごとしらす、それに梅肉が絶妙なバランスをとった焼き飯だった。  まず第一にご飯がパラパラで油っこくない。そんなご飯の中で、よく晴れた日に干した布団を思わせるようなふわふわの卵、海を感じるようなほんのりとした塩気を漂わせたしらす、それに梅雨が明けたばかりの初夏のような、さわやかな酸味の梅肉が絶妙に混じり合った焼き飯。  それを口に含めば、まさに至福の瞬間がやって来た。ありふれた素材でも、腕と工夫次第で天国に届くハシゴを組み立てられると思えるような。
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