Guerrilla / revival

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 死ぬ、と思った。  いまや目前には確実な死が迫っていた。視線の先に銃口がある。こちらに照準が合わさっている。見慣れた金属の光沢が銃の先端に宿り、その奥底には夜よりもさらに虚ろで深い暗がりがはっきりと見えた。  死ぬのか、と思う。死とはこんなにも簡単にやってくるものだったのか。たしかに死はいつも身近に感じられていた。黎明(れいめい)にひとすじの朝焼けが差す瞬間や、真夏の灼熱に(うな)されたような静寂や、海と地平の狭間に押し潰されていく薄暮(はくぼ)。衰退と復活とで縫いあげられていく年月。それらの美しい情緒の端々に、死は丹念に織りこまれていた。  しかしいま、目の前にある死は単なる無だ。意味も(おもむき)も理屈もいっさいない、ただ突然で理不尽なだけのそれだ。ましてや悪でも醜さでも、(けが)れでさえもなかった。無は平坦で平らかな絶対で、確かにこちらに辿りつこうとしていた。  本当か、これは本当なのか。こうして自分は死ぬのか。これでは何にもならない。いままで自分が積みあげてきたささやかな人生の到達点がこんなものではあってはならない。そんなはずはない、嫌だ、嫌だ、まだ駄目だ。今ではない、せめて今ではないのだ。  逃げればいいと考えるが、しかし恐怖で凍りついた血管が全身を縛りつけている。すでに活動をあきらめてしまった臓腑のなかで両の目だけが生き残り、波打つ動悸に瞬きを忘れ、迫りくる死を克明にとらえていた。  言葉にならなかった。拒む意思とはうらはらに目は見開き耳は澄み、死という終わりに際していた。  駄目だ、嫌だ、まだだ、やめろ、誰か、誰か、誰か!   引き金が引かれたらしきわずかな音が、心臓を鋭く打ったようだった。瞬間、強い衝撃が身体を走った。 *  「如月君ッ!」  名前を呼ばれて気がついた。とたん、見失っていた現実がいっせいに血肉へと叩きつけられた感じがした。視界にうつるのは虚無ではなく、遠ざかる夜空に(けぶ)る街灯とビル群の輪郭だった。一瞬にして自分の置かれた状況を取り戻した如月は、足を踏み留めて倒れかけていた身体を押しとどめた。すかさず顔をあげようとすると、先刻までとらわれていた死の残滓(ざんし)が痛みとなってよぎった。意識するよりも先に手に力が入り、落としかけていた拳銃を握りなおす。虚無のために高鳴っていた搏動が、現実に(さら)されて闘志のそれと変わっていた。嘆きは(たぎ)りへ、慟哭は叛意(はんい)へ。解き放たれた血流が、あかたも逆流したかのように身体じゅうの感覚を奮い立たせた。  如月は顔をあげきり、すばやく周囲の者たちを見やった。絶望からの覚醒と興奮とが神経をけしかけ、あたかも時間の流れがゆるやかになったようだった。敵は五人、いずれも陸軍の兵士だった。それぞれ小銃を手にして如月へと照準を合わせている。その中のひとりは如月のすぐそばで、振り下ろした銃底を元に戻そうとしていた。差し向けられた殺意が、夜にはりめぐらされた糸となって、如月という敵を捕らえようとしているのがありありと見えるようだった。  不意をつかれて小銃で殴られたと如月は理解した。わずかでも気絶したことへの反抗と恥ずかしさからか、粗い仕草になった。如月はひとりの軍人に顔を向け、自分を殴りつけた小銃を蹴りあげると同時にためらいなく撃った。すかさず振りかえり、両の手をあげてふたりの軍人へ向ける。何が起きているのか把握しきれていない軍人たちへ引き金を引く。昂ぶりに研ぎ澄まされた神経が深夜の解像度を際立たせ、手をしかるべき方向に指し示し、驚くほどの速さと正確さ、そして冷酷さを生み出していく。  銃声の残響が血肉をけしかける。銃から排出される薬莢が夜景を引きちぎりながら落ちていく。反動でしなる腕が優雅な律動で犠牲をもたらしていく。こちらの腕をつかもうとしてきた手を寸前で(かわ)して足を踏みこみ、身体をひねりざま敵へ狙いをつける。引き金を引いたとき、敵の戸惑いと驚愕を慈しむような笑みをこぼしていた。先刻理不尽な死を味わった反動で、生の実感が心身へと押し寄せ、常人を超えた力として息づいていくようだ。残響に小銃の音が被さるのを感じるやいなや如月は身を沈ませると腕を伸ばし、頬を擦過(さっか)する熱を感じながらも目を開き、最後のひとりを撃った。  次の標的を探しかけ、その必要がないと気づいた如月は銃を下ろした。目前にはいままでとまったく変わらない都心の街並みが広がっていた。研ぎ澄まされた神経と実感の余韻が、道路や林立する建物に洗錬された瑞々しさを与えている。しかしそのなかに民間人はひとりとして見当たらず、倒れた軍人たちの向こうには交差点を封鎖するようにバリケードが築かれていた。東京を象徴する豪奢な交差点を封鎖したそれは軍事独裁政権の正しさと隆盛を仰々(ぎょうぎょう)しく誇示するようだ。コンクリートとアスファルトの硬質な暗がりのなか、腫れ物のようにへばりついている。  背後から近づく跫音(あしおと)は聞き慣れた山本芳明のそれだった。如月の振舞いを初めて目にした芳明は感服と驚きを微かな笑みで表現していた。まだ知りあってわずかなこの男は、おそらく悲しみも怒りも笑みで表現するにちがいなかった。敵でない保証はなく、本心が読めない者であったが、如月は言われるまま、いままでずっと独りで果たしてきた破壊行為に芳明をつきあわせた。 「礼を言わなきゃな。おかげで助かったよ」  如月が言うと芳明が笑みを(たた)えたまま否定した。己が名を呼ばなくても如月なら気づいたと言いたげだが、芳明の呼びかけがなければ本物の死が待っていた。  芳明が足を止めて周囲の様子を眺め渡したあと、如月に目を向けてきた。眼鏡の奥にあるまなざしは長年に渡り柔和と温和で(はぐく)まれた品性と人当たりのよさを感じさせる。一方でその柔和が盾であるのかもしれないと思わせる不均衡さもあった。しかしそれは芳明の目がとらえた如月自身を見ているだけなのかもしれない。本心を覗かれるのを恐れて、理想や正義や、情熱に満ちた語り口や突き放した表情などを幾重にも塗りこめた分厚い擁壁(ようへき)を張りめぐらせている。 「しかし驚きました。〈如月〉の噂は伝え聞いてましたけど、実際はそれ以上だ。何が起こっているのか正直わからなかった。どこで訓練を?」 「別に特別なことはしてないよ。この銃をくれた奴さ、黒沢っていうんだけど、そいつにちょっと教わったくらいだ」 「素晴らしい」  芳明が如月をひたと見据えて告げた。優しい声色はしかし如月の技量に対しての素直な感服と尊敬が潜み、己の認識と目にした超常的な光景とが()りあわされ、現実の枠におさめようと試みていた。芳明の目にはどう映っていたのだろうか。死が織りこまれた光景の美しさを芳明は見出(みいだ)してくれただろうか。  ひとたび(はし)れば、心身からあらゆる線引きや限界がなくなる。美醜も喜怒哀楽も、そして善悪の境目すら壊しかねない自分の特異性、それが幸不幸の線引きにまで及ぶと如月が意識したのは、最近になってからだった。  自分よりも確実に歳がいっているであろう芳明の、(おもね)りもせず(へりくだ)りもしない接しかたが如月には新鮮だった。如月は長いあいだ人との関わりあいを避けてきたせいで、他者との物差しが優位争いでしかなかったが、目のまえに立つこの不可思議な男に物差しごと壊され、その残骸から別の距離感が復活してくるような感じを抱いた。これが友情というのなら、そうであってほしいと願った。その再生は他者との関わりあいだけではなく、如月自身の再生をも果たし、未来への(しるべ)を打ち立ててくれるはずだった。  ……あたりを見渡し追っ手が来ないのを確かめ、バリケードに背を向けて歩き出した如月のあとを芳明は追い、横についた。芳明より低い位置にある肩は、二挺の拳銃を軽々と扱っていたとは信じられないほどに華奢だった。  芳明はバリケードをふりかえり、その暗さに心の昂ぶりを(なだ)めた。あの光景がいまだ脳裏で脈を()つようだ。あれは一体なんだったのだろう。如月の一連の振舞いは、速さも高さも技量も、あたかも現実と非現実のはざまを引き破るかのように超越していた。陸軍の兵士たち複数とたったひとりで対峙しながらまったく(ひる)まず、有利不利という概念すらもひっくり返してみせた。銃弾を放ったときすでに彼の目は次の敵を捕らえ、向けられてくる殺意の隙間を悠然とかいくぐっていた。銃身に引き伸ばされた街灯の冷ややかな輝き、意識の先をひた走る弾丸の千々(ちぢ)に乱れた光り、冷酷さと無情さとで研がれた姿の美しさ。すばやさに目が追いつかなかったはずなのに、重力を脱ぎ去ったような如月の所作は鮮烈な印象を留めていた。  芳明は如月の顔をそっとうかがい見た。深夜の仄暗さが及んだ顔だちはひどく端正だった。眉や鼻梁(びりょう)の線はまったく(ほつ)れのない滑らかさを持ち、微光を籠もらせたような肌は(もろ)さと(はかな)さで張りつめている。長い睫毛は伏せがちの目もとに憂いを与え、そのなかで唯一瞳だけが先刻の名残を(おき)として残しているようだった。  軍のクーデターによって東京の状況が一変したのち、たったひとりで叛乱(はんらん)を起こしている青年。夜の都会を漫然と歩いているような如月がその人だと知って芳明は驚きと納得を同時に深めた。実際に接して眺めた如月の行いは、饒舌(じょうぜつ)にその心を語っていた。強大な権力に挑む無謀さは如月自身がいちばんよく理解している。敵の要所ひとつを壊し、軍人を何人か(ほふ)ったところで体制にはなんの痛手も与えられず、当然大局を変えられるわけではない。しかし軍に支配された東京にいる以上、なにか行動を起こさずにはいられないのだ。常人ならざる技量を自覚していた如月は、かくして向こう見ずな試みをはじめた。  そして如月が権力へ刃向かうのは、おそらく大義や正しさとはまったく違う、強い理由があるのかもしれないと芳明は感じていた。おそらく如月自身はっきりと認識していないであろう理由は、彼の持つ危うさの核を為し、破壊や殺戮などを(にえ)にして育まれている。薄氷のような膜で覆われた核心が、如月の表情や印象に後ろ暗い(かげ)りを落としているようだった。 「オレのやり方は無駄だと思うか」  つと如月が()いてきた。見返すと如月のまなざしに一瞬若者らしい戸惑いが走った。芳明はこれから続くであろうやりとりも、如月の(ずる)さも見通していた。本心をかたくなに(かく)す者は、とかく責を他者に(ゆだ)ねたがる。所感を述べるのは簡単だが、それを如月の足掛かりとして定めてしまうのは(はばか)られた。 「どうでしょうね。無駄でもあり、有意義でもあると僕は思います」  ゆえに芳明は模糊(もこ)とした答えをかえした。優柔不断な言い方はしかし如月の凝り固まった定石にひとすじの(ひび)を入れたようだった。先の展開を見通した上で芳明はあえて如月の思惑に沿った道すじを歩んでいる。こうして実際の夜道を歩いているのと同じように。芳明をよほどのお人好しだと感じたのか、如月が複雑な表情を浮かべた。  両者の気質は正反対だが、極端さはおなじだと芳明は感じた。どのような善良も正しさも度が過ぎれば毒になる。如月が善悪の境をなくすほどの衝動を持ちあわせているのと同等に、芳明自身の持つ甘さは毒のそれとなって己に浸潤(しんじゅん)し、身を滅ぼしてしまいかねないと自覚していた。しかし、芳明の武器もまた甘さだった。 「しかし可能性がないわけではないでしょう。現に如月君の行動は僕を引きよせた。自覚はないと思いますが、君にはどこか人を惹きつけるものがある。現体制を変えたいと願う者は多い。君についていきたいという者は間違いなく増えていきます」  如月の形式めいた謙遜を口にさせないために、芳明は諭すように言った。任せて欲しいという意味で芳明は笑みを濃くし、決して悪いようにはしないと口にしかけて躊躇(ためら)ってやめた。  しばらく歩き、左右に道が開けた場所で芳明は立ち止まった。つられて足を止めいぶかしげに見やってきた如月へ、芳明は手をあげて暗がりの先を指し示した。昏い空の下で、静寂の底にうずくまるように見えるのは東京駅だった。クーデターが起こる前、両翼を広げるように組みあげられた煉瓦は夜になれば明かりを受け、重々しい威と由緒を煌々(こうこう)として照らし出されていた。その駅舎もいまの戒厳令下で明かりは(うしな)われ、いまふたりが立っている場所からはかろうじて屋根の形や風情が判別できるほどにしか眺められない。東京の象徴がこうして暗がりにまぎれこんでいる光景は、時代と栄華を剥奪(はくだつ)され、無為へと(うず)められてしまったかのような物悲しさを覚える。駅を見やる如月のまなざしに力がこもったのを芳明は見逃さなかった。奪われたこの眺めを、如月も叛逆(はんぎゃく)嚆矢(こうし)として見ているのは間違いなかった。 「気に入らない、理由はそれで充分なんですよ」  如月の思いを支えるように芳明は言った。いちど芳明を向いた如月の目は、仄暗さを(かて)にしたような輝きが息吹いていた。やがてうなずいた仕草はいままでになく柔らかく、それだけに根深い部分からこみあげてきた情念であるようだった。  如月は長いあいだこの時を待っていたのだろう。反抗という名の火種が、ごく幼いうちから焦燥となって如月の胸のうちに(くすぶ)りつづけ、心を荒れ野にさせてきた。理由もわからないままひとり生まれに(あらが)い、歩みに抗い、周囲に抗いつづけてきた。焦燥によってもたらされた衝動をもてあましたまま、捌け口も見つからないまま過ごし、それが自身をも瓦解させようとしたとき、クーデターが勃発したのだ。如月にとっては皮肉にも、不本意で不自由な世界の到来が己を飛翔させることになった。閉塞が彼を自由にさせ、抑圧が彼を解放した。長いあいだ荒涼とした自意識に()んでいた如月は、現実が荒涼となってから世界と己の境がなくなり、ようやく羽搏(はばた)けたのだ。東京が暗がりに沈んではじめて、如月は叛逆という(ゆる)しの光りを得たのだった。 「灯しましょう、如月君。僕たちの(あか)りを」  色褪せてしまった情景へいまいちど自分たちの意思を色づかせる。(いにしえ)(よみがえ)りだけではなく、まったく新たな色の一刷毛(ひとはけ)を加えた光景はおそらくいままでにない眺めで魅してくれるはずだった。  あたかもいましも色をつけようとしているかのように、如月はしばらく駅舎を眺めやっていた。深夜に(けぶ)るビルのあいだを抜けてきた風は、栄華の名残を錆びつかせたような匂いがした。やがてこちらを向いてきた如月の面立ちを芳明はどこかで見たことがあると感じ、すぐに陸軍の青年将校だと思い至った。名をたしか橘と言い、漠然とした話ではあるものの(ひい)でた印象を持っていた。しかし一瞬の感覚でどうして敵対する者を思い浮かべたのか芳明にはわからなかった。おそらく、自分の知見を超える出来事を目の当たりにしたせいかもしれない。芳明が両者に垣間見たのは、あらゆる(しきい)を易々と超えていく者の顔つき、破壊と構築の天秤を握れる者の顔つきだった。  如月が差しだしてきた手を芳明は握りかえした。印象そのままに細く華奢な如月の手はぞっとするような冷たさを持ちながら、奥底に燃えるような芯を感じさせた。 「命の保証はできない。それでもいいか」 「それこそ無駄な質問です」  芳明が諧謔(かいぎゃく)めいて応じたとき、突如として視界が異様な明るさで満たされた。目を射抜かれるような白みへ腕をかざすと、大きな光源がこちらに向けられているのがわかった。見ると如月もまぶしさに目を細めてライトの方を見やっている。蒼白とした顔に黒々と刻みこまれた影が、己へ投げかけられていた色合いを侵したことに対する純然とした憤怒を浮かびあがらせていた。  ライトの方角から警告と投降を命じる声が放たれ、続いて反対側の方向からも光が照射された。視界がきかないなかで芳明は東京駅へと目を向けた。照明の向こう側で夜に紛れているはずの駅舎はもうどこにあるのかも感じられず、あるのは情緒も威も取り払われた無機質な暗がりだった。   警告がたえまなくくりかえされる。如月から目配せされた芳明は思惑を汲んだという意味でうなずいた。敵がどのような力を見せてきたとしても、あるいは巧妙な罠を仕掛けてきたとしても、踏み越えていけると芳明は思った。  はたして如月が銃を手にして奔りだそうとするのを、芳明は感慨深く眺めた。その背後に広がる景色は光と夜とが強烈に区切られ、あたりに横溢(おういつ)する警告のせいでひどく深閑(しんかん)としている。如月を見送る芳明の視界のさなかに、夜と光り、そして街の髄液が昂然(こうぜん)として飛び立ったようだった。 終
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