14人が本棚に入れています
本棚に追加
「お父さん、どうしてそんな急に……」
アヤはテーブル上の錠剤と父の横顔を見比べながら訊く。いつの間にか、涙がこぼれていた。
錠剤を飲めば、眠るように死んでいくことができる。ノア計画不参加と決めた者に無条件で与えられた権利の象徴だ。
今後10年で地球は加速度的に蝕まれていき、汚染によりどれほど厳しい環境になっていくかわからない。健康状態が急激に悪化したり、食料が一気に不足することもあり得る。
また、そんな中で、残された人々がどう変わっていくかも不明だ。
中には、自暴自棄になって破壊的な行動をとる者もいるだろう。どうせ死ぬのだから、と重大な犯罪を繰り返す者も出てくるかもしれない。治安がとてつもなく悪化し、冷静に生活しようとする者が犠牲にされることが増える世界……そうなる可能性もある。
とても生きているのがつらい状況になったときに備え、与えられたのが安楽死用の錠剤だった。
「ずっと考えていたんだ。アヤの未来を自分のために閉ざさせてはいけない、とね。お母さんもきっとそう言うだろう」
お父さん……。
父は今年還暦を迎えた。また、数年前脳梗塞で倒れ、その後遺症で両足にマヒが残っている。そのため、ノア計画には自ら参加しないことを表明していたし、希望してもおそらく却下されただろう。
「やだよ、お父さんっ! 私も一緒に、お母さんのところに行く。また3人家族に戻ろう」
泣きながら父にしがみつくアヤ。
「アヤは、テツヤ君と一緒に、新しい地球で新しい家族を築いていくんだ」
父は、優しく、そしてその奥に強い意志を込めた瞳でアヤを見つめた。
「でも、でも、そんなに急になんて、いやだよぅ……」
アヤはずっと泣き続けることしかできなかった。
しばらくそんなアヤの頭を撫でていた父が「それなら」と口を開いた。
え? アヤが顔を上げる。
「すぐにこれを飲むのはやめよう。アヤが明日までにノア計画参加を申し出るのを確認する。それから、できれば、アヤとテツヤ君の結婚式を見たいな」
「お父さん……」
「なに、ささやかなものでいいんだよ。なあ、母さん?」
父の目が、母のホログラムに向けられた。母も満面の笑みを見せたように感じられた。
最初のコメントを投稿しよう!