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すずらんリバイバル
何でもそれなりにできるのは、特別できることはないということだ。
吉河良伸は、とりとめのない不安を抱えていた。
新規客からの依頼で、住宅地にある一軒家に向けて歩いている。
叔父が営む便利屋でバイトをさせてもらっている良伸は、特に苦手な教科はないが、得意な教科も好きな教科もない子供だった。
周りの流れに逆らわずに進学して、就職活動をしたが内定を得ないまま卒業した。何とか就職した人手不足の会社は2年と続かなかった。
自分に絶望して引きこもっていたが、叔父が心配して雇ってくれたおかげで生活できている。
日々に大きな不満はないし、文句を言えるような人間ではない。そう思っているのに、バイトを始めて3年目に入った頃から「辞めても何にもならないけど辞めたいな」という漠然とした思いが良伸の中をもやもやと漂っていた。
世界に生命力が再びあふれようとする季節。途中で見かけた川沿いの桜並木はお祭りで売られている綿菓子のように大きな丸いピンク色になって並んでいた。
今回の依頼内容は掃除、洗濯、炊事と、依頼人の気分によっては話し相手になることだ。
最寄り駅から徒歩十数分。学校帰りの子供たちの元気な声とすれ違って到着したダークグレイ色の家はひときわ静かな空気に包まれていた。
左手に駐車スペースがある。車はなく、ぽっかりと空間が広がっていた。右手にはガーデニングが楽しめそうな庭があるが、ドクダミやカタバミに覆われていて手入れされている様子ではなかった。
玄関ドアの前に到着してインターホンのボタンを押す。家の中でピンポーンと響く音が聞こえた。
足元には家の壁に沿って土が入っている溝があった。表面がつるつるで尖った形の葉がぽつりと植わっているだけで、それ以外の部分は寒々しく土が露わになっていた。
「はい」
インターホンから小さな声がして視線を戻す。
「便利屋きらっくです。ご利用ありがとうございます」
明るく元気に、でもうるさくはないように。いつものように、そう心掛けて名乗る。
「今、開けます」
この依頼人は物静かなタイプのようだ。「良い仕事には想像力が不可欠だ。お客さんが喜ぶことが便利屋においては正解なんだよ」という社長の言葉が思い出される。
ドアが開き、中からぼさぼさに乱れた髪で顔が覆われた男性が現れた。上下ジャージ姿だが、上下で色もデザインも違う、ちぐはぐした格好だ。やせた顔の中で銀縁の眼鏡の奥に見え隠れする目は眠そうにしばたき、その下には隈が染みついていた。
40歳前後だろうか。若くも見えるが落ち着いた大人の雰囲気だった。
「どうも。よろしく」
のんびりした声で招き入れられたリビングはカーテンが閉め切られ、薄暗い中にほこりと家庭ごみの気配があった。
以前に対応したことがある、ごみでいっぱいになった家と比べればかなりましだが、それなりに手ごたえがありそうだった。
「最初に作業内容の確認をさせてください」
「はい。ああ、電気、付けるか」
緩慢な動きで電気が付けられ、部屋に光が満ちた。紙、本、箱、食べ物の包装の残骸などが床を多い、洋服が小さな山脈を作っている。
洋服の小山をどかして勧めてくれたソファに座り、作業内容も記載されている契約書を取り出して、向かいに座った依頼主の前に示した。
「美紙優世様。ご依頼ありがとうございます。担当の吉河です。よろしくお願いします」
これまでのバイト経験で身体に染みついた口上を述べる。
変わった名前だ。偽名かも知れないと良伸は思っていた。便利屋きらっくへの依頼は偽名でも何でも構わないことになっている。数年前にどこかで似た名前を見たような気がするがはっきりしない。映画の原作者か何かだっただろうか。
良伸は作業内容の確認を続ける。
「今回のご依頼は掃除、洗濯、炊事と話し相手でよろしいでしょうか」
「うん」
「午後4時から7時、期間はひとまず今日から5日間、金曜日までですね」
「うん」
「問題なければ、サインをお願いします」
美紙は面倒そうな様子を隠すことなく書類にさっと目を通してサインした。
「ありがとうございます。早速、作業に入ります。本日の作業のご希望はありますか」
「あー、適当に?」
「はい。では、リビングの片付けと夕食作りでいかがでしょう」
部屋の状況から考えて提案した。
「うん。……いや、夕食はいいや。この部屋の片付けを頼むよ」
そう言って美紙はだるそうに立ち上がった。
「僕は2階にいるから。邪魔したら悪いし、眠いし。時間になっても下りて来なかったら携帯鳴らしてくれる?」
「承知しました」
「よろしく」
軽く手を振って階段を上がっていく美紙を見送った。
「さあ、始めるぞ」
いつもの独り言でやる気を高める。掃除道具を入れてきた仕事用の大きなリュックサックを開き、ゴム手袋とごみ袋を出して作業に取りかかった。
ごみと洋服をそれぞれ袋に集め、廃棄して良いか確認が必要な本や書類の仕分けを終えたのは、7時少し前だった。
ポケットに入れていた社用携帯が振動した。
「お疲れさまです、社長」
「お疲れ。着いたよ」
予定通りの時間に社長から連絡が来た。他の依頼からの帰りにごみと洗濯物の回収に寄ってもらうことになっていた。
社長が運転してきた軽トラックの荷台に満杯になった袋を6つ乗せた。洗濯物は明日洗濯を終えて届けてもらうことになった。
道路に停まった会社の軽トラックを見て既視感を覚えた。似たような家で引越しに伴う粗大ごみの回収をしたことがあるような気がした。
リビングに戻って帰り支度をしているところにゆっくりした足音が聞こえた。3時間前よりもさらに乱れた髪で大きなあくびをしながら美紙が下りてきていた。
「おお、きれいになってる。めちゃくちゃ寝てた」
「ちょうど時間になるので、今日のところはこれで失礼しようかと。お手数ですが、廃棄して問題ないか確認しておいていただけますか」
良伸はまとめておいた本や書類を指して言った。
「うん」
「ありがとうございます。それでは、本日はこれで」
「また明日、よろしく」
美紙は玄関まで見送りに来て手を振ってくれた。
春宵の帰り道、身体のほど良い疲れと、働いたという何とも言えない安心感が腹に広がっているのを感じながら良伸は歩いていた。
いつものように事務所に連絡を入れて直帰した。築43年のアパートに帰り着き、シャワーを浴びて寝巻でもある部屋着に着替え、洗濯機を回し、夕食の支度をする。冷凍しておいたご飯を解凍して、キャベツとニンジンを適当に切って水を入れた鍋に放り込んで火にかける。鍋の中でふわりふわりと動く野菜を見ていると妙に頭の中が静かになって良いということには最近気づいた。
完成した夕食を持って定位置の座椅子に腰を下ろす。帰ってきてから一連の家事を終えるまで座らないこと。食事をするのを忘れて動けなくなったり、洗濯をするのが面倒で仕事に行く服がなくなって社長に借りたりと、幾度となく重ねてきた失敗を経て自分と取り決めた約束事だ。破ったところで自分以外の誰も咎めはしないが、自分が一番ねちねちと責めてくる奴だから破らないようにしている。
食事を終えて食器を洗い、洗濯物を干し、後は寝るだけという状態にして本を開く。
目下の心配事なく本の中に沈むこの時間がいちばん落ち着く気がする。
家賃と食費でバイト代のほとんどが消えていく生活では本は贅沢品だ。休みの日でお金に余裕があるときには、これという本との出会いを求めて書店を歩き回る。
購入した本たちは座椅子の前のローテーブルの横に積み上げられている。まるで本でできたビル群の風景だ。新しい本を読み終えてしまえば、前に読んだ本を読み返して、本のビル群は少しずつ形を変えていく。
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