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バスの車窓から見える景色も、その先に広がる町並みも、全てはぼくの記憶通りだった。ただ季節だけが二か月分早送りされ、緑の深くなった並木に強い日差しが当たっている。
我が家へ急ぎながら、ぼくは玄関先で別れたときのアグネスの不安げな瞳を思い出していた。彼女が今感じている不安は、あの時の比ではないだろう。早く安心させてあげたい。
商店街を抜けた先に、古くて居心地の良いアパートメントがある。ぼくはいつものように狭い階段を使ったが、四階に到着するころにはすっかり息切れしていた。ずっと寝たきり状態だったのだから当然か。ベストコンディションを維持していたときの記憶しかないので、ギャップにいちいち戸惑ってしまう。
勝手知ったるドアを開く。玄関の左手、日の差し込む明るいダイニングに入ると、愛しい人が背を向けて立っていた。胸がいっぱいになり、ぼくはかすれ声で呼びかけた。
「アグネス」
ほっそりとした肩が大きく震える。振り返ったアグネスの顔には表情がなかった。
そしてぼくは気づいた。バックアップ取得後、ティム・ゴッガーはいったん帰宅し、任務に就くまでの数日間を家族と過ごしている。ぼくにその記憶が無いのは、ちょっとした誤差だと思っていた。アグネスにとっては、そうじゃないとしたら?
ぼくたちは無言のまま、数秒間向かい合った。アグネスの視線が、ぼくの顔の上でさまよっている。ぼくは思わず言った。
「アグネス、ぼくは……すまない」
アグネスは息をのみ、口元を両手で覆った。呆然とするぼくを置いて、続きの居間に駆けていく。
「ママ? ……パパぁ!」
入れ替わりに居間から出て来たのは小さなロジー、ぼくたちの娘だった。ロジーはぼくを見とめるとぱっと笑顔を浮かべ、手を広げて駆け寄ってきた。ぼくも手を広げ、娘をいつもするように抱き上げる。温かく、柔らかい。立ち上る子どもの甘い匂い。ぼくはこれを知っている。
「ロジー、ダーリン……お前に会えて嬉しいよ」
「ローも! ねえパパ、おみやげもってきてくれた?」
ロジーはあどけない口調で言う。出発前に交わしたのであろうその約束は、ぼくの記憶には残っていなかった。
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