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ダイニングテーブルの前に、きみとアグネスが座っている。アグネスはきみにしがみついていた。
「アグネス、心配しないで。うまくやるよ」
「わかってる。でも怖いの。どこにも行かないで欲しい」
「大丈夫、必ず戻ってくるよ。それに万一のことがあったとしても、ぼくにはバックアップがあるし」
おどけた口調のきみに、アグネスは涙に濡れた顔を上げた。
「バックアップなんていらない! ティム、私はオリジナルのあなたに戻ってきて欲しいのよ」
「……わかった、約束する。きっと戻ってくるよ」
きみはアグネスを抱きしめ、髪を撫でた。彼女の嗚咽がおさまると、きみは左手を差し出した。
「指輪はここに置いて行くよ。私物は持ち出せないから」
そう言って薬指の結婚指輪を外し、近くの引き出しに無造作にそれをしまう。
「ここに入れておく。戻ってくるまで、君が見張っていてくれ。いいね?」
アグネスはうなずいた。きみは彼女の顔を両手で挟み込むと、そっと顔を近づけ……彼女にキスした。
ぼくは、居間のソファで目を覚ました。あたりは薄暗い。夜明けはまだのようだ。
『バックアップなんていらない。オリジナルのあなたに戻ってきて欲しい』
アグネスの声が頭の中でこだまする。あんな夢を見た後で、もう眠れそうにない。いや、二か月も眠っていれば十分か。ぼくは自嘲した。のどがカラカラに乾いていた。
ダイニングに入り、水を飲む。グラスを戻しながら、ぼくはふと左手の薬指を見た。指輪はない。
不意の予感に突き動かされ、ぼくは作り付けの食器棚に手を伸ばした。一番上の浅い引き出しを引くと、その勢いで中身がカチャカチャと音を立てた。
引き出しの中には、さまざまなスプーンが入っていた。アグネスは、旅の思い出としてあちこちで買ったスプーンを、この引き出しにコレクションしている。大きなスプーン、小さなスプーン、木のスプーン、陶器のスプーン……ぼくはその中をかき回した。
ぼくの結婚指輪は、金色の小さなティースプーンに引っ掛かっていた。ぼくは震える指でスプーンを取り出し、その柄から指輪を抜き取った。
ではさっきの夢は、実際にあったことなのか? そんなはずはない。バックアップは、ぼくが任務に出発するよりずっとまえに取得されていたのだから……
「どうしてそれを?」
振り返ると、真っ白な顔をしたアグネスが立っていた。
「それを返して。それは、ティムのもの」
ぼくは、指輪をダイニングテーブルに置いた。その動きをアグネスの視線が追っている。指輪から手を離し、ぼくは言った。
「アグネス、ぼくは、彼じゃない。でもぼくも、ティム・ゴッガーなんだ」
アグネスの顔が歪む。ぼくは彼女に近づこうとした。
「来ないで!」
とたんに鋭い拒絶の声が上がり、差し出しかけた腕が途中で止まる。ぼくはどうすることもできず、ただ彼女がすすり泣くのを見つめていた。
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