こんこんきゃは

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 8月の日差しがじりじりと街を焦がします。たっぷり熱を蓄えたアスファルトの上にはかげろうが立ちのぼっていました。いつもは人通りの多い南風(みなみかぜ)商店街も、路上の人影はまばらです。  そんな中、一人の少女が歩道に立って、きょろきょろとあたりを見回していました。年は5、6歳くらい。リボンのついた麦わら帽子にピンクと白のワンピースを着て、赤いリュックを背負っています。少女はそばにあった和菓子屋の無花果(いちじく)堂に目をとめました。しばらく中の様子をのぞきこんでいましたが、そろそろと店の中に入っていきました。 「こんにちは……」 「いらっしゃいませ」  カウンターの中から、臙脂(えんじ)色の着物姿の店員が声をかけました。 「あのね、ちょっとおしえてもらいたいの」 「どうしたの?」  店員はカウンターから出て、少女のすぐ前にやって来ました。屈みこんで目線を合わせます。 「おつかいに来たんだけど、お店の場所がよくわかんないの」 「えらいね、おつかいができるんだ。それで何を買いに来たのかな?」 「おそうざい屋さんのいなりずし」  少女は大きな声で答えます。 「おそうざい屋さんね。だったら、この前の道を左に進んで、二つ目の四つ角を右に曲がったところよ」 「わかった。おねえさん、ありがとう」  不安そうな表情が少し和らぎました。少女は表の通りを振り返ります。うなじまでびっしりと汗をかいていました。 「おじょうちゃん、汗びっしょりよ。ここで休憩して行かない? 冷たい麦茶があるわよ」  店員の言葉に少女は困ったような表情をうかべます。 「あのね、今日はカオリんちにおじいちゃんとおばあちゃんが遊びに来るの。おかあさんはおそうじで忙しいから、カオリがおつかいに来たの。早く帰らないとおかあさんが心配するから……」 「麦茶を飲む間ぐらい大丈夫じゃないかな。お母さんは急がないといけないって言っていたの?」 「そんなことはないけど……。わからなかったら商店街のお店の人に聞きながら行きなさいって言ってた」 「じゃあきっと大丈夫よ。そうだ、麦茶を飲む間、狐さんのお話をしてあげようか?」 「きつねさん?」 「そう、このあたりは昔は街道、人がたくさん通る道だったの。その頃は狐に化かされた人がいっぱいいたんだって」 「化かされる?」 「道を迷わされたり、油揚げを抜き取られたり……。カオリちゃんもいなりずしを買って帰る途中に化かされちゃうかもしれないわよ」 「えっ、いやだ」 「大丈夫よ、狐に化かされない方法も教えてあげるから。ねえ、どうする?」  カオリはしばらく考えて、こくりとうなずきました。 「わかった、お話を聞かせて」 「じゃあ、麦茶を持って来るわね。そこに座って待っていて」  カオリは緋毛氈を敷いた縁台に腰を下ろしました。  カオリは店員が持ってきた麦茶をごくんと飲みました。喉から広がる冷たさがほてっていた体を心地よくさまします。店員もカオリの横に腰をおろして、お話を始めました。 「昔、このあたりに街道が走っていて、多くの人が行き来していたの。まだ、自動車は無かったから、自分の足で歩くか、馬に乗るかくらいしかなかった。こんなにたくさん家は建っていなくて、周りに山や原っぱが残っていたから、そこにたくさんの狐が住んでいたの。  その頃の狐は人間の姿に化けたり、人に幻を見せたりすることができたのよ。よくあったのは油揚げやぼた餅をちょうだいする話。そうした荷物を持って街道を歩いていると、知っている人に話しかけられるの。立ち止まってしばらく話をして、歩き出した後で荷物が軽くなっていることに気がつくの。荷物を開けてみると油揚げやぼた餅など、狐の好きな食べ物だけが無くなっているのね。荷物を持ってやろうと言われて、そのまま持ち逃げされることもある。出会った人を探し出して聞いてみても、そんなところには行っていないと言われるの。狐がその人に化けていたのね。  狐をいじめたり、巣穴を壊したりすると、ひどい仕返しをされることもあったわ。山の中を三日三晩、道に迷わされたり、宴会に招かれていい気分で飲み食いしたら、実は全然違うものを食べさせられていたり、お風呂のつもりで大つぼ、昔のトイレね、に浸かっていたり。  あと、よく化かされていたのは馬子(まご)、馬をひいて人や荷物を運ぶ人たちね。こんなお話があるわ……」 「馬子の太一は街道沿いに人や荷物を運ぶのを生業(なりわい)にしていました。馬はぶっとい脚をした黒馬、蒼月です。もっぱら、山間(やまあい)の里から海辺の村に野菜や(たきぎ)を運び、帰りは塩や海産物を運びます。頼まれれば人を乗せて行くこともありました。  日射しが厳しい夏の日、太一は両脇に荷駄を載せた蒼月を引いて街道を歩いていました。街道が山間を抜け、緩やかに流れる川の土手沿い続くあたり、村境(むらざかい)に松の木が植えられていまし。歳月を経て幹が二又に分かれた松に近づいた時、太一は横にのびた幹の上に腰掛けてこちらを眺めている娘の姿に気がつきます。歳の頃は十四、五くらい、山吹色に茜の細い縞がはいった小袖はくるぶしまでの丈、髪を頭の後ろでざっくりとまとめ、赤い曼珠沙華の花を一輪、(かんざし)のように差していました。  太一が松の前に差し掛かると娘は声をかけてきました。 「おじさん、どこまで行くん?」 「江波(えば)の港に行くところよ」 「あたしを乗せて行ってくんない?」  太一は振り返って蒼月の荷を見ました。今日の荷物は茄子や胡瓜を詰めたかますに薪の束、娘っ子の一人ぐらい追加しても大丈夫そうでした。 「いいけどな、銭は持っとるか? 二十文だ」 「うん」  娘は(ふところ)から銭入れを覘かせます。ずっしりとふくらんでいる様子が見てとれました。 「じゃあ、乗りな。馬をそこへ寄せるから、待ってろ」 「いいよ、自分で乗れる」  娘は松の幹からひょいと飛び降りて駆け寄ってきました。蒼月の鞍に手をかけたかと思うと、あっという間に背の上によじ登っていました。横座りで鞍の上に乗り、蒼月の首に右手を添えています。 「乗ったけぇ、出発して」  太一は蒼月の様子を見ました。荷物が増えて(こた)えているようには見えません。この娘は見た目より軽いのかもと思いました。 「行くぞ、蒼月」  蒼月の手綱を引いて歩き出しました。 「この馬は蒼月って()うの?」 「ああ」 「黒い馬なのにどうして?」 「こいつが生まれた晩はきれいな月が出とったんだ」 「ふうん……。いい馬ね」 「まあな」  太一は娘を見上げました。 「おまえ、なんて名だ?」 「あたし? おさんよ」  おさんは道すがら太一にいろいろと話しかけてきました。今年の夏は雨が少ないとか、おかげで川の鮎の育ちが今ひとつだとか。太一は適当に相槌を打ちながら進みました。  二人は五つの村を抜け、二つの峠を越えました。八幡川のほとりの地蔵堂の前を過ぎ、江波の港が近づいて来ました。太一はおさんに話しかけます。 「おまえ、江波には何をしに行くんだ?」 「今日はさ、満月じゃけぇ大潮よね」  おさんは空を見上げました。つられた太一も空を見ましたが入道雲が立ち昇っているだけで月は見えませんでした。 「もうすぐ引き潮の時間よ。江波の浜辺は遠浅になっとって、潮が引いた後に潮だまりにたくさんの獲物が残っとるんよ。そいつを獲りに行くの」 「獲物って魚か?」 「魚もおるけど、おいしいのは蛸や海鼠(なまこ)よね」 「売るのか?」 「まさか。自分で食べるんよ」  太一は振り返って娘を見上げました。おさんはにこにこと微笑んでいます。かわいい顔に似ず大飯食いなのだなとあきれました。  街道は海に近づき、風が時折磯の香りを運んでくるようになりました。やがて江波の港に抜ける最後の峠に差し掛かります。 「もう少しね」 「ああ」  峠の(いただき)近く、それまで道の両側に茂っていた樹木が途切れ、眼下に江波の浜辺を見渡せる場所に出ます。茫々と夏草が茂る斜面の先に、すっかり潮が引き砂浜が遠くまで広がっているのが見えました。吹き上がって来る潮風が心地よく感じられます。  おさんが蒼月の上から声をあげました。 「ねえ、おじさん」 「なんだ?」 「ここら辺でいいけぇ」 「いいよって、港はまだ先だぞ」 「わかっとる」 「浜は近くに見えるけど、ここから降りて行く道は無いぞ」 「あたしには十分なの」  いぶかしがる太一の前で、おさんは鞍の上で膝立ちになった。右手を招き猫のような格好に掲げる。 「こんこん」  右手をくいっとひねる。 「きゃは」  甲高い一声をあげると、とんぼを切って背後の草むらに頭から飛び込んで行きました。太一はあわてて駆け寄ります。がさがさっ、草むらの中を何かが走り去って行くのが草の揺れでわかりました。夏草の切れ目で、一瞬、きれいな山吹色の毛並みをした狐の姿が見えました。狐はそのまま浜の方へ駆け下りて行き、あっと言う間に姿が見えなくなりました。太一はただ茫然と見送るだけでした。しばらく立ち尽くしていた後、蒼月に鼻先でうなじを(つつ)かれて我に返ります。気を取り直し、おさんが飛び降りたあたりを調べると、草むらの中に赤い曼珠沙華の花が一輪、ぽつんと転がっていました。  馬子たちの溜まり場で、太一が馬子仲間に尋ねたところ、同じような体験をしたことのある者が何人もいました。どれも大潮の日、少女から年配まで年齢は様々だが江波まで行きたいと言う女を乗せたが、浜の見える峠で「こんこんきゃは」と叫んで飛び降り、金を払わず消えてしまったということでした。馬子たちの間では、村境の松から江波まで歩いて行くのは狐でもしんどいのでこんなことをするのだろうと言う話に落ちつきました。騙された馬子の中にはおさん狐を見つけたらお仕置きしてやると息巻いているものもいましたが、おさんは人の顔を見分けられるらしく、同じ馬子に二度声をかけてくることはないそうでした」 「でもね、このお話しにはまだ続きがあるの」  店員は食い入るようにして見つめてくるカオリに語りかけます。 「次の大潮の日、いつものように蒼月を引いて街道を歩いていた太一は、村境の二又の松の手前で唖然としました。松の木の脇に一人の女が立っています。歳の頃は二十五過ぎの大年増、薄紅(うすくれない)の小袖の上に、萌葱(もえぎ)色の地に真っ赤な曼珠沙華の花を散らした打掛を羽織っています。うなじを広く開けた着こなしは肩が半分のぞくほど。松の木にしなだれかかる様は、あたりの鄙びた情景にまったく馴染まないものでした。  太一が前に差し掛かると声をかけてきます。 「もし、お兄さん、どこまで行かれます?」 「江波の港」  太一はぶっきらぼうに答えます。 「それなら、港まで乗せて行っていただけませんか?」  太一は蒼月の荷駄を見ました。ひとを一人乗せるくらい大丈夫そうです。だけど……。  太一はつかつかと女に近づくと、目をのぞき込んで言い放ちます。 「おまえ、おさんだろう」 「なにをおっしゃいます。わたしは」  女はそこで一度言葉を切ります。 「おせんと申します」  目を細めて太一を見つめます。その目は笑っているようにも見えました。太一はしばらく女を睨んでいましたが、ため息をついて肩を落とします。 「わかった、わかった。乗せてやるよ」 「ありがとうございます」  蒼月に歩み寄った女は、あっと言う間に鞍の上に座っていました。黒馬の首に添えた右手で(たてがみ)を撫でます。蒼月はおとなしく撫でるままにさせていました。 「いい馬ですね」 「まあな」  そして、江波の港に向けて歩き始めたのでした。太一は女と話しながら進みました。  江波の峠の頂近くまで来ると、女は鞍の上で膝立ちになり、 「こんこんきゃは」 と叫んで、とんぼを切って草むらに飛び込んで行きました。やっぱりおさん狐だったのです。  その後も時折、おさん狐は太一の前に現れ、太一はおさん狐を蒼月に乗せてやりました。何度も一緒に道中するうちに、おさん狐は太一に、『こんこんきゃは』は狐の言葉で『ありがとう』という意味だと教えてくれました。おさん狐はいつもお礼だけは言っていたのでした。昔こっぷりどうらんけっちり」  話し終えた店員を、カオリは目をぱちくりしながら見つめます。店員は座り直してカオリの方を向きました。 「それでね、さっき話した、狐に化かされない方法だけど、狐が化けているかもしれない人やものに出会ったら、こうやって」  店員は右手をグーの形に握って顔の横にかざしました。手首をくいくいと動かします。 「こんこんきゃは……って言うのよ。『こんこんきゃは』は狐同士のあいさつの言葉でもあるの。その相手が狐だったら、こっちも狐だと思って化かすのをやめてくれるのよ」 「ええと……、『こんこんきゃは』、こう?」  カオリも小さな手を顔の横でくいくいと動かしました。 「そうそう、じょうずよ」  店員はあらためてカオリの様子を眺めました。汗は引いて、表情もリラックスしたものになっています。 「カオリちゃん、おつかいはいなりずしを買いに行くんだっけ?」 「うん、いなりずしをね、おじいちゃんが3個でしょ、おばあちゃんが……。ええと、ぜんぶで10個買うの」 「そう……、じゃあね」  店員は和菓子のショーケースに飾られていた竜胆の花を抜き取りました。菓子を包む紙をペーパーナプキンのような形に折って、竜胆をその中に差し込みます。 「おそうざい屋さんに、髪が長くて胸が(ざん)……じゃなくて、すらりとしたおねえさんがいるから、『お誕生日おめでとう』と言ってこのお花を渡すのよ。きっとお返しに何個かおまけしてくれるわ」 「わかった。ありがとう」 「気を付けて行くのよ。狐に化かされないようにね」 「うん」  カオリは和菓子屋から通りへ出ました。歩道を左に進み、二つ目の四つ角で、右に曲がります。 「あそこだ」  すぐ先にそうざい屋がありました。店の前にも巻き寿司や天ぷらなど多くのおそうざいが並べてありました。カオリはきょろきょろしながら店の中に入ります。 「いらっしゃい」  萌黄色の制服を着た店員が声をかけてきました。カオリは彼女をしげしげと見つめます。背中にかかる長髪とすらりとした体形、この人に間違いないと思いました。 「いなりずしを10個ください。それと」  竜胆の花を差し出します。 「おねえさん、お誕生日おめでとう」 「あら」  店員は不思議そうな顔で竜胆を受け取ります。 「どうもありがとう、でも、どうして今日がわたしの誕生日だってわかったの?」 「あのね、お菓子屋さんのおねえさんに教えてもらったの。お花を渡したらきっと何個かおまけしてくれるって」  カオリの言葉に店員は微笑みました。 「なんだ、葛葉(くずは)の入れ知恵か。でもいいわよ、うれしかったからおまけしてあげちゃう。2個おまけして12個入れとくわね」 「ほんと? おねえさん、ありがとう」  カオリはいなりずしの包みを入れたリュックを背負って、そうざい屋を出ました。いなりずしをねらって狐が出てくるかもしれない。リュックの肩ベルトをぎゅっとつかみ、あたりを見回しながら進みます。  通りを歩いている人はあまりおらず、カオリに話しかけて来る人はいませんでした。今日はきつねさんは出てこないのかなと思った時、歩道の真ん中に座り込んでいるキジ猫の姿が目に入ります。でっぷりと太った猫はカオリを睨みつけてきます。  カオリが近づくと、猫はむくりと立ち上がりました。臭いを嗅ぐように鼻をすんすんと動かすと、物欲しそうな顔でカオリをじっと見つめます。カオリは和菓子屋のおねえさんが、狐は人やものに化けると言っていたのを思い出しました。何にでも化けられるのなら、猫に化けることだってできるかもしれません。  カオリは右手を上げました。 「こんこんきゃは」  右手をくいくいと動かします。猫はそんなカオリの様子をじっと見つめ、 「フシュウーッ」  唸り声ともため息ともつかない声を上げました。首をぐるぐると振り回した後、ぷいと横を向いて路地の奥に去って行きました。  和菓子屋の前まで戻ると、さっきの店員、葛葉が柄杓で打ち水をしていました。カオリは彼女のそばに駆け寄ります。 「おねえさんのおかげでいなりずしを2個おまけしてもらっちゃった。猫さんも道を開けてくれたし……」 「よかったわね」  カオリは店員から『ありがとう』の伝え方を教えてもらったことを思い出しました。店員を見上げて、右手を顔の横にそえます。 「こんこんきゃは」  右手をくいくいと動かしました。店員もカオリに微笑みながら右手を上げます。 「こんこんきゃは」  それはよく通る心地よい声でした。その声を聞き彼女の笑顔を見ていると、カオリは気持ちがあたたかいもので満たされ、不思議に元気が出てきました。背中のリュックもさっきまでより軽くなった気がします。 「ただいまあ」  カオリは勢いよく玄関に飛び込みました。 「お帰りなさい」  お風呂場で掃除をしていた母親が出迎えます。 「ごくろうさま。おつかいはちゃんとできた?」 「はい、このとおり」  カオリはリュックを下ろして母親に渡します。 「おそうざい屋さんでおまけしてもらっちゃった。いなりずしが12個入っているよ」 「あら、すごいじゃない」 「お菓子屋さんのおねえさんにはお話をしてもらったの。きつねさんのお話」 「おもしろかった?」 「うん。きつねさんのあいさつも教えてもらったんだよ」 「じゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんにも教えてあげようね」  母親はリュックからいなりずしの包みを取り出しました。 「手を洗ってきなさい。おじいちゃんとおばあちゃんもそろそろいらっしゃるわよ」 「はあい」  元気な返事をしてカオリは洗面台に向かいます。母親は台所で包みを開けます。 「あれ?」  母親は首をひねりました。カオリは12個入れてもらったと言っていたのに、いなりずしは11個しかなかったのです。数が合いません。母親はしばらく考えていましたが、おつかいをやり遂げてごきげんなカオリの気持ちに水を差すようなことは言うまいと決めました。いなりずしを小皿に移していきます。 「きゃは」  どこからか笑い声が聞こえました。                 終わり
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