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仄見えた白無垢
神社の境内は紅で満たされていた。
その境内には紅白それぞれの梅の木が植えられているそうだけど、僕らが行ったその日に花を咲かせていたのは紅の梅だけだった。
その年は暖冬だったせいか、紅梅に限って例年より1週間ほど開花は早かったみたいだ。
「いつもの年より早く咲いてるから、
まだ誰も来てないみたいだね」と、
彼女は少し照れ臭そうにそう言った。
ふわりと紅の花びらが舞った。
それは彼女の含羞から目を逸らさせようとする、紅梅のささやかな思いやりであるかのようにも思えてしまった。
この神社は梅の名所としても有名で、梅が満開になる二月下旬にはそれを鑑賞しようする人で一杯になるとのことだけど、その時、境内は僕と彼女以外は誰一人として居なかった。
その日は大安だったためか、向こうに見える拝殿では結婚式が執り行われていた。
白無垢を纏った新婦が介添えに傅かれつつ拝殿の奥へと入って行く様がちらちらと目に入った。
「いつもはお祖父ちゃんやお祖母ちゃんと
一緒に来るんだけどね」と、
どこか言い訳めいた呟きをこぼした彼女は、枝垂れ梅の下にてその足を止めて、紅の花弁をそこかしこに咲かせている梅の枝を微笑みながら見上げていた。
まだ冷たさを孕んだ晩冬の微風がふわりと吹き抜ける。
微風は紅の花弁を揺蕩う枝からもぎ取り、寄る辺を失った紅の花びらはゆるりゆるりと宙を舞う。
微風は彼女の髪をやんわりと揺らす。
背中の真ん中くらいまで伸ばした彼女の髪は、まさに「みどり為す黒髪」という例えそのままに艶やかだった。
二月半ばの慎ましやかな陽射しに照らされた彼女の黒髪は凪の海のような柔らかな輝きを放ち、まるで鏡であるかのように舞い散る花びらの紅を艶やかに映しているようだった。
まだ底冷えの残る時期だったから、彼女は薄手のトレンチコートを纏っていた。
真っ白なそのコートは、舞い散る花びらや枝垂れた枝に咲き乱れる花が纏う紅、そして鏡のように照り映える彼女の黒髪をより一層際立たせていたように思う。
僕はその情景から、思わず自分の視線を引き剥がす。
二月の微風は僕の身体からじわりじわりと熱を奪っていたけれども、彼女と紅梅とが織り成す夢のような情景が、知らず知らずのうちに僕の中の想いを沸々と滾らせつつあったから。
沸々としたその想いは、僕にあらぬ言葉を口走らせかねないと思ってしまったから。
用意してきた言葉じゃなく、思いもよらぬ生々しい言葉を。
そして、彼女のその白い装いは、つい先程に仄見えた白無垢姿の花嫁を思い出させたから。
プイと目を背けた僕の後ろから、慎ましやかな笑い声が響いてくる。
僕は思わず背中を強張らせる。
「どうしたの、急にソッポ向いちゃって?」と、
彼女は悪戯っぽく問い掛ける。
「いや、ちょっと…」と、
僕はしどろもどろに言葉を返す。
僕はゴクリと唾を飲み込んで呼吸を整える。
沈黙が流れる。
けれども。
彼女は、僕が為したその沈黙の意味を取り違えたみたいだった。
「梅の花言葉って、知ってる?」と、
彼女は小さな声で問い掛けてきた。
やや気勢を削がれた僕は、戸惑いを隠せぬ口調で
「え、いや…、知らない…」と、
つっかえ気味に言葉を返す。
「『耐え忍ぶ心』なんだって」と、
彼女は被せ気味にそう口にする。
その言葉からは、ついさっきまでの悪戯っぽい調子はまるで消え失せていた。
その代り、金属のような冷ややかさすら纏っているようにも思えてしまった。
その冷ややかさは僕の決意を促すように思えた。
僕は意を決し、そして、彼女のほうへと振り向く。
やや腰をかがめ、僕より頭半分ほど背の低い彼女の顔を真正面から見詰める。
彼女のその瞳はうっすらと潤んでいた。
そして、その唇は硬く結ばれていた。
その様は、まるで込み上げる言葉、あるいは激情を必死で堪えているようにも見えた。
そんな彼女の気配に気圧されるようにして、僕は小さく息を吸い込み、そして唇を開く。
吐く息が意味のある言葉を為そうとしたその時。
「おーい、ここに居たのか!」
不意に呼び声が響いてきた。
彼女の祖父の呼び声だった。
張り詰めていた緊張は一挙に緩み、僕の声帯を震わせようとしていた息は溜め息となって口から迸り出る。
今にも泣き出しそうだった彼女の表情は、立ち所にいつものような柔らかな微笑みへと入れ替わる。
そして、「な~に、おじいちゃん?」と、
朗らかに言葉を返す。
こうして、僕らの最後の逢瀬は終わった。
彼女は去り際にこう告げた。
「梅の花 香をかぐはしむ……」
これは僕が聞き取れて、そして覚えている限りのものだ。
彼女はまだ言葉を続けていたけれども、その声は次第に小さくなっていたし、そして急に強さを増した二月の風に、呟きのようなその声は呑み込まれてしまったから。
祖父の元に向かう彼女は僕の方へと一度だけ振り向いた。
その表情は、まさに先程のものと同じだった。
その口元はへの字に固く結ばれ、その瞳は涙で潤んでいた。
濡れた黒曜石を思わせるその瞳と、艶やかな黒を湛えたその髪は、舞い散る花びらの紅を映しているかのようだった。
思わず引き留めようかと思ったけれども、向こう側から掛けてくる彼女の祖父の呆けたような笑みの前に、その気持ちは萎え失せてしまった。
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