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3.その意味は
お茶の用意を尋ねる使用人に我に返ると、チェルシーはその紙を取り敢えず折り畳んだ。
使用人に自室に持って来るように頼んでから、早足で階段を上って部屋の扉を慌てて閉めた。扉を背後に、手に持ったままの紙をもう一度開く。
見間違えでも何でもなかった。片方の手で頬を抓る。痛い。
息が少し上がっているのは階段を駆け上っただけではない。心臓はドキドキと耳元に存在するかのように音を立ていた。それは久しぶりの感情で。強いて言うならば初夜を迎える前、彼をベッドで待っているとき以来だ。
「うそ……」
だってその文字は先ほど出掛けていったフレッドの筆跡とよく似ているのだから。
「でも、まさか……」
チェルシーは本棚から木箱を取り出して蓋を開けた。実家から持ってきた木箱はあまり開けることはないが、大切なものを仕舞う場所であった。
そこから封筒を取り出す。中身を取り出すまでもなく宛名で確信できた。
「や、やっぱりフレッド様の字だわ」
封筒の差出人はフレッド、宛名はチェルシー。
これはまだ婚約者であったころ、フレッドからプレゼントと一緒に送られてきた手紙だったのだ。まだあまりフレッドのことを知らなくて、素敵な夫婦になれるかしらと夢見ていたものだ。だからこそこの箱に手紙は仕舞われていたのだが。
——今の今まで忘れていたけれど。
そこには先ほど拾った紙よりかは断然に丁寧な字で書いてあったが、チェルシーという文字の跳ね方のクセは同じだった。
書いた人物は分かった。フレッドだ。
しかし新たな疑問がある。
『可愛すぎてつらい』とは?
可愛いは分かる。言われてとても嬉しいし、まさかフレッドがそんなふうに思っていたなんて、その文を見るだけでもドキドキしてしまうほどだ。けれど『つらい』という文字には眉を顰めてしまう。あまりいい意味では使う言葉ではない。
「フレッド様、おつらいのかしら?」
チェルシーに対して無関心だと思っていたが、まさかつらいと思われているとは考えもしなかった。
初恋もまだの、精神面で少し幼い18歳には、可愛すぎて辛くなる意味が分からなかった。けれどこれをフレッドに突きつけて、意味を尋ねるのは違う気がする。それにこの紙はもうチェルシーの木箱に保管することに決めた。今さら返すほども彼とは接点はない。
幸いこの屋敷にはチェルシーに優しい大人たちが沢山働いている。フレッド以外に聞いてみよう。
それにもしかしたら、この屋敷のどこかにまた新たな紙を見つけられるかもしれない。
「楽しみだわ……!」
チェルシーはここに嫁いできて、初めてワクワクとした高揚感を感じていた。なによりフレッドが結婚してからも、チェルシーという文字を書いたという事実がやけに嬉しかった。名前を書いて、可愛いと書いてくれるほどは気にかけてくれているのだから。
「でも……つらいなんて……」
風邪をひいてつらい、とか良くないことが起こって、結果が『つらい』なら分かる。しかし可愛いということは悪い言葉ではない。全くもって意味が分からず、チェルシーはまだまだ人生の勉強不足だと痛感した。
ずっと立っていたことに気づいたチェルシーは、ソファーに腰かけようとしてテーブルにティーセットが置かれていたことに気づく。いつの間にか用意してくれていたらしい。
自分の世界に没頭していたから、使用人が入ってきたことに気付かなかった。しかし返事もなしに入ることはないので、生返事でも返していたのだろう。既に部屋には使用人の姿は無かった。
「聞くタイミングを逃したわね」
呟いて温かな紅茶に砂糖を少しだけ入れる。ゆっくりと口に含めば鼻に抜ける茶葉の香りに、やっと落ち着いた心地がする。使用人に聞けばよかったな、とさっきは思ったが、自分一人で探し当ててみたい気もする。
だって基本、毎日チェルシーは暇なのである。たまのお茶会に誘われたり、孤児院を慰問する以外は屋敷に引きこもっていることのほうが多い。夫人がするべき執務はあれど、微々たるもので。
クッキーを一口齧りながら、一旦脳内を整理をしてみることにした。
まずは使用人に『可愛すぎてつらい』ことの意味を聞いてみる。それからフレッドの書いた紙の捜索だ。これは逆に執事や使用人に見つからないようにせねばなるまい。
「わくわくする……!」
チェルシーの口元は自然と緩む。平凡な日々に訪れた一振りのスパイス。チェルシーは元来好奇心が旺盛なのだ。
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