また火が灯る

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 トイレに行くついでに少し外の空気を吸おうと非常階段に出た。雑居ビルの三階のこの居酒屋は経営者が部長の知り合いとかでちょっとした飲み会によく使う。重たい扉をゆっくり開けて外に出ると、そこで課長が煙草を吸っていた。オレンジの小さな火。 「あ、」  まずい、という様子で慌てて煙草を消そうとするので、私は首を振った。非常階段には灰皿が備え付けられている。多分お店の人がここで吸っているんだろう。私に止める義理はない。 「いいですよ」 「……普段はやめられてるんだが」  言い訳みたい。課長は確か、二年ほど前に煙草をやめたということになっている。私の二十八年の人生で煙草は咥えたことぐらいしかないが、お酒が入ったときにちょっとだけ吸いたくなる、ということもあるだろうとは思う。  私が黙って立っていると、課長はゆっくりと煙草を吸っている。いろんな光でごみごみと汚れた灰色の夜の中で、煙草を吸う課長の横顔は、男前だった。課長と言ってもまだ三十一歳で、年齢不相応な落ち着きはあるが、気を抜いたときに不意にぎらっと男の若さが見える。まだ独身で、女の子がこそこそきゃーきゃー騒ぐのも理解できる。 「悪いな。空気を汚した」  吸い終わって丁寧に煙草を消すと、課長は私を見てちらっと笑った。仕事中には見せない顔だ。課長は手すりに凭れてぼんやりとしていて、なんとなく私も戻りがたい。 「元気がないですね」  会話に困って、適当に選んだ話題で急に踏み込んでしまっていて、顔に出さずに慌てる。 「元気はないよ」  課長は頼りなく笑って答えた。胸ポケットの煙草に手を伸ばそうとして、やめている。吸ってもいいのになと言おうとして、やめた。 「少し前に、彼女と別れた」  知ってますし、さっき女子陣がその話でもちきりでしたよ。  と言うわけにはいかないので、 「ははあ」  とだけ言った。  どういう態度で聞けばいいのかわからない。課長は私の困惑を気に留めない様子で、話を続ける。 「煙草も彼女が嫌がってたからやめたんだよな」 「はあ」 「俺は正直、結婚したかったんだけど、なんだか、うまくいかなくて」 「はあ」 「だから、弱ってる」  沈黙。課長は私を振り返って、照れ臭そうに笑った。そういう笑い方をすると小さな男の子みたいだ。多分そのことには本人気づいてないんだろう。ずるい、と思う。 「君はどうだ。最近」 「元気ですよ」 「うん」  よかった、と、課長が言って、また胸ポケットに手を伸ばした。それで、またやめる。やめなくたっていいのに。 「私は、元気ですけど」 「うん」 「少し前に、母が病気をして」 「え」  私は安心させるように首を振った。 「もうだいぶよくなったんですけど、その時期休みには実家に手伝いに行っていて」 「……うん」 「それで、まあ、どこまで本気かわからないですけど、いい人いたら紹介してって」 「……うん」 「私、彼氏がいたんですけど、ちょうど大きい仕事をしてて、忙しそうで、」 「……うん」 「……何にも言えなくて……」  目元に涙が滲みそうになって、どうにか堪えた。平気そうに話したい。もう全部、終わったことだって、二十八歳の、余裕のある大人の女として。  誰が好きとか嫌いとか、誰がかっこいいとか、そんなことで、もう心を揺らしたりしたくない。  だって、どうせ、うまくいかない。あんなに好きだったのに、うまく伝えることもできなかった。  また、沈黙。スマートフォンの時計を見る。大した時間は経ってない。ゆるくて人数の多い飲み会だから、まだ私の不在を気に留める人はいないだろう。でも、そろそろ戻ったほうがいい。向こうにいないことが問題なんじゃなくて、ここにいることが問題だった。  ここは二年前、飲み会で、外の空気を吸いに出た。そして、そこに、 「行かないでくれ」  腕をつかまれる。あのときとおんなじで、涙が一粒零れた。課長が、まだあのときは主任だったこの人が、煙草を吸っていて、少しだけ話して、戻ろうとしたら、腕をつかまれた。  あのときから、二年経って、少しは成長したはずなのに、あの時と同じように、私はその手を振り払うことができない。その私を見て、課長がほっとしたみたいに笑う。だから、そんな顔はずるい。 「煙草」  意地悪な気持ちになって言う。 「うん」 「上司なら吸っててもいいけど、彼氏なら、だめです」 「うん」  それでも課長は笑ったままで、なんだか私もおかしくなって、つられて笑った。
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