縷々屋

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「言葉は重い」  暗い店内に少女の気だるい声が響いた。俺は開いた戸を後ろ手に閉じ、声の主へ視線を走らせる。カウンターの向こう側、高校の制服を身にまとった少女が、本に囲まれて文庫本を開いていた。暗がりの中、彼女は細い指でページをめくる。 456eb93d-14bb-4aab-a247-868bfa45a410「その本は重量にして僅か四〇〇グラム。しかし、読んでみれば四〇〇グラム以上の重みを感じさせてくれる。言葉には確かな質量があるのだ」  彼女の言う「その本」が「どの本」を指すのか、この本の山の中では分からない。数千、いや、数万冊はあるだろう天井まで積み上げられた本は、壮観というよりは狂気じみていて、見上げるだけで目が回りそうだ。カウンターの先に座る少女が本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。 「ほう、これはこれは。見たこともないほどに間抜けな面構えだな。その外見からすると、君の脳内にされた情報は、毒にも薬にもならない退屈な本一二〇〇グラム程度のものだろう」  本三冊分かよ。それも、つまらない。  心の中で突っ込みつつも、顔と顔が向かい合った瞬間――。  つまり、彼女の真っ直ぐな視線が、俺の瞳を射抜いた瞬間――。  まるで猛獣と対峙しているような錯覚に陥り、心臓が止まりそうになった。  その威圧感の原因は、暗がりに浮かぶ白い肌だろうか。それとも長い睫毛で縁取られた黒い瞳だろうか。いや、一つ一つのパーツの何れかに原因を求めるのは間違っている。彼女の身なりや姿勢、絹のように滑らかな髪、陶磁のように白い肌、半分閉じられた黒い瞳の全てが合わさり、異様な威圧感となっているのだ。読んでいる本を取り上げれば、頭からカプリと食べられそうである。  冷静になれ。相手は俺と同じ人間だ。飢えた獣ではないのだから、取って食われることはないのだ。どうってことはない。俺は自らの胸に言い聞かせながら拳を握りしめる。 「その本はね、希少な物なのだよ。私でも見つけるのに一年と二ヶ月の歳月を費やした。宮崎の小さな町営図書館で、その命が尽きかけているのを見た時は興奮したよ。場合によっては、もう二度とその姿を見ることができなかったのだからね。しかし、本の真価は当然ながら読んだ時にこそ発揮される。その本に詰まった言葉の重さは、単純な数値では計れないのだ。仮に一二〇〇グラムの価値しかない君が、その本を踏みにじり、破いてしまえば、それは死によって償おうとも許されるものではない」  彼女が顔を上げると同時に、耳に掛かっていた髪が頬に滑り落ちた。気だるそうな半眼が、更に細められる。 「つまり、だ。その汚い足を直ぐにどけたまえ」  視線を落とすと、学校指定の革靴と床の間に一冊の本が挟まっていた。そんなに大切な本を床に置くなと内心で悪態を吐きながらも、俺は本を拾って表紙を払う。というか、それだけのことを言うのに、どれだけの時間を費やしているんだ。 「その……本、すみませんでした」  彼女の半眼が何故か少し見開かれる。謝ったのがそんなに意外なのだろうか。さすがの俺にもそれくらいの常識はある。 「いや、分かればいい。それより、私に何か用があるのか?」 「バイトの件で電話した谷村です」 「あぁ、時給二〇〇〇円という怪しさ極まりない広告に釣られて電話をくれた谷村か。私は山田縷々だ。縷々と呼んでくれ。本探し専門の探偵事務所、縷々屋の店主を務めている。早速だが、面接を始めようか」  口の悪い女子高生が店主の時給二〇〇〇円のバイト――。  俺はその瞬間にでも、突っ込みどころ満載のこの場所から逃げ出すべきだった。そうすれば、この後に起こるあらゆる厄介ごとから逃げられたはずなのだ。しかし、俺にはそれができない事情があった。  ここ数カ月、ファミレス、コンビニ、ガソリンスタンドと、様々なバイトに応募してきたのだが、何故だか不採用が続いていた。遊びたい盛りの男子高校生にも関わらず、財布を逆さにして出てくるのは埃だけ。小遣いという恵まれた制度が存在しない我が家にとって、最早バイトの採用・不採用は死活問題だった。多少、怪しい求人でも、同年代の女子高生にこき使われることになったとしても、選り好みできる立場ではない。  俺は白い封筒を差し出し、神妙な顔で一歩下がった。しかし、そんな俺の緊張など知る由もなく、縷々は履歴書を開いた瞬間に噴き出した。 「ぷッ! この顔は……いや、何でもない」  写真はタイミングが悪くて半眼になっていたが、金銭的余裕がなく、撮り直すことができなかった。許容の範囲だと思っていたが、もしかしたらこれが連敗の原因かもしれない。こほんと咳払いした縷々が、履歴書を読み上げる。 「谷村蒼太郎、十七歳。弐(に)山(やま)高校の生徒か。制服が似合っていないので、新一年生かと思ったが、私と同じ二年生なのだな」 「すみません」  反射的に謝ってしまった。同級生かよ。 「座右の銘は下剋上。この店を乗っ取るつもりなのか? 何となくニュアンスは伝わるが、履歴書には書かない方が無難だぞ。次から気をつけたまえ」 「き、気をつけます」  次からって――何気に不採用の宣告に聞こえてしまう。 「特技は模型作り。趣味は古本屋めぐりか。本は本でもどうせ漫画が主だろう」 「いやぁ、あはは……」  むしろ漫画しか読んでいないとは言えない。 「ふむ、汚い字ではあるが、綺麗に書こうとはしている」 「す、すみません」  何故だか謝ってばかりだ。 「さて、履歴書を読ませてもらった上で、君に問いたいことがある」  縷々は履歴書を折りたたむと、室内で唯一本が置かれていない接客用のテーブルを指さし、椅子に座るよう促した。俺が椅子に座るのを見届けると、縷々もカウンターから出て向かいの席につく。テーブルはサーモンピンクの脚に支えられたアンティークで、その上に白い小皿、ティーカップが置かれていた。 「君は本が好きかね?」  ティーポットを傾ける縷々を眺めながら俺は答える。 「……嫌いではありません」  実は好き嫌いを語れるほど、本を読んでいる訳ではないが、本関連の仕事の面接で「好きではありません」と返す訳にもいかない。  曖昧な返答がよろしくなかったのか、彼女は右手に拳を作り、顎に触れ始めた。こういう時までバカ正直な己の不器用さを呪いたい。この面接も失敗だろうか。俺はうつむいたまま、視線を上げて縷々の様子を窺った。眉を寄せ、考え込む彼女の深刻な表情が、嫌でも俺の喉を鳴らす。沈黙。考え込んでいる状況に耐えかね、俺から何か話しかけようとした瞬間――縷々は顔を上げた。 「合格だ」 「合格!」  時給二〇〇〇円という破格の金額から、どれだけ慎重な面接になるのかと想像を張り巡らせていたが、質問はそれだけだった。彼女は目を伏せてティーカップの輪に指を掛けると、ゆっくり持ち上げて口に付ける。 「うちがどんな仕事をしているのかは分かっているか?」  彼女の口調は女性らしからぬものであるが、声質は年相応の少女のものだ。色に例えるなら透明。よく聞く声のような気もするが、あまり聞かない声質にも聞こえる。形容し難いが、彼女が放つ音の羅列はとても耳触りがいい。 「本専門の探偵ですよね」 「そうだ。本を探すのが仕事だ」 「本の探偵ということは……。お客さんがなくした本を探したりするのですか?」 「そういう依頼もあるし、そうでない場合もある」  何だろう。はぐらかされている気がする。俺は警戒するように質問を続けた。 「お店に並んでいないような貴重な本を探すのですか?」 「そうだ」 「探偵ということは、依頼を達成させられることもあれば、失敗することもあるんですよね?」 「そうなるな」 「結構な数の依頼を成功させて来たんですか?」  縷々はうんざりしたというように、本に視線を戻した。 「そういう質問はいいから」 「いいとかじゃないですよ。給料もらって働く訳ですし、気にして当然ですよね。もしかして殆ど成功していないんですか?」 「解決率〇%じゃよ」  突然の声に振り向くと、帽子を被った和服の老人が入口付近に立っていた。杖をついているものの、背筋の伸びた元気そうな爺さんだ。 「誰かと思えばまたクソ爺か。余計な事を言わないでくれ。せっかくこれから入るバイトが逃げてしまう」  縷々は老人を一瞥すると、眉間に皺を寄せて嘆息した。老人は俺の横を通ると縷々に近づき、顔を寄せて耳打ちする。何を告げているのか、内容までは聞き取れないが、暗がりの中で老人の眼が怪しく光る。 「分かった。明日、伺おう」  縷々の返答を受けた老人の顔が、橙色の照明の下でいやらしい笑みを浮かべた。今にも舌なめずりをしそうな雰囲気だ。 「ぐふふ、今回も……お主の……をじっくり楽しませてもらうぞ」  老人は意味深な言葉を残すと、俺の横を通り過ぎて店を出て行った。滞在時間は僅か数十秒。老人は一体どのような言葉を縷々に耳打ちしたのだろうか。 「仕事ですか?」 「そうだな」 「というか、解決率〇%ってどういうことですか?」 「……何のことだ?」 「ごまかしても無駄ですよ。さっきの老人が言ってたじゃないですか」  縷々は改めて嘆息すると、カウンターの上に本を積みながら口を開いた。 「そのままの意味だ。私は本探しの仕事を成功させたことがない。ただそれだけのことだ」 「それだけって……。仕事として成立してないじゃないですか」 「そんなことはない。お金は前金でもらっているし、恐らく客も満足している。だから、仕事として成立しているのだ。成功しようが失敗しようがお金は儲けられる。これ以上に素晴らしいことはない。何と言ってもお金は本を買うことができるからな。そうだろう?」 「満足しているって、そんなことはあり得ませんよ。失敗して喜ぶ人がどこにいるんですか。依頼を達成できなかったとしても、見つかるまで期限を延ばして探すべきです。お金までもらった上に諦めるなんて、恥ずかしくないのですか?」 「別に恥ずかしくなどないさ。私は本が買えればそれでいい」  やはり履歴書の写真を取り直して、別のアルバイト先を探すべきだろうか。用途不明な荷物を運ばされたり、後で厳つい顔の男が出て来て脅されたり、悪い予感しかしない。不信感は顔にも出ていたのだろう。縷々は面倒そうに言葉を重ねた。 「人間生きていれば色々なことがある。どのような生き方をしようと問題は生じるし、悩むことだってあるだろう。悩み過ぎてどうしようもなくなった時、人は諦めるという選択肢を見つける。途中で諦めていれば、苦しまずに済んだのだが、灯台下暗しとはこのことで、人は悩み尽くさなければこの単純な答えに行きつかない。つまり、諦めは肝心。諦めこそが美徳。行きつく先が同じなのであれば、最初から諦めた方がいいとすら言える。人はいつかそのことに気づくものであり、人生なんてそんなものだと過ちを繰り返した後に口々こぼす。だから私は諦める。すんなりと」 「諦めたら試合終了です。それじゃあ商売として成立していません」 「あー、あれだ。君はめんどくさいな。成立しているからこそ繁盛しているのだよ。この店は」 「何故それで客が来るんですか?」 「そこを気にしないのも、君の仕事の一つだよ」 「帰ります」 「こっちを見たまえ」  抑揚のない言葉に振り向くと、縷々がテーブルに身を乗り出していた。その手には一万円札の束。ざっと数えても十枚以上はある。 「お金があれば何でも買える。買いたいだろう? エロ本? ゲームソフト? 小説? 小説は文庫本か? ハードカバーか? ライトノベル、純文学、ミステリ、なんでも手に入るぞ」  こんな時でも、縷々のすまし顔は変わらない。というか、何故、本関係だけやたらと具体的なんだよ。しかも、エロ本が最初だし。 「んぐ……札束でぺちぺちしないでください」 「青少年よ、お金は重い」 「重いのは言葉じゃなかったんですか?」 「はて、そうだったかもしれないが、両方とも重いということにしておこう。それで問題はなくなる。とりあえず、君はこれを受け取りたまえ」  縷々は札束の中から一枚を取り出し、俺の手の中に押し込んだ。縷々の冷たい指先が手の甲に触れる。 「今日は帰っていい。明日、日曜日の労働は五時間。それで一万円はなかなかの仕事じゃないだろうか」 「うう」  確かに一万円は大きい。 「さあ、一緒に金を稼ごう。君が望むなら、報酬はもっと弾んでやるさ。勿論、しっかり仕事をしてくれるのならね。大丈夫、何も恐くないさ。君は言われた通りに動けばいい。バカみたいに。犬みたいに」  死ぬほど怪しい店の、死ぬほど怪しいやり取りを見た後で、死ぬほど怪しい勧誘。これはもう犯罪確定だろうと思ったものの、俺の心が躍ったのはインク臭い紙切れを近づけられたからか。  俺はお金が欲しい。何でも手に入ると言えば大げさだが、金があればある程度のものは手に入る。温かい飯も、新しい服も――友人の誘いだって断らなくていい。  若者とは無謀である。経験が少ない為、何か事件に巻き込まれるのではないかと思いつつも、状況を甘く見積もり、目先の利益に囚われてしまうものなのだ。俺は店を出た後に振り返り、旧市街の路地裏にある小さな店に掲げられた縷々屋という看板を見上げながら、そんなことを考えていた。
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