昭和の技

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 母が出産のために実家に帰っていた、ある夏。小学生だった私は父方の祖父母の家に、丸ひと月預けられたのだった。  新築マンションで育った私にとって、祖父母の家は殆ど異世界だった。とにかく、何もかもが古かった。家も、家具も、水回りガス回りの設備も。  そんな中でも幼い目に特に印象的だったのが、部屋の所々に置かれた家電たちだった。扇風機、電子レンジ、冷蔵庫、掃除機、洗濯機……それらは、私が父母と住む家にも存在する物だった。だというのに、祖父母の家にあるそれらは、私が日頃慣れ親しんでいた物たちとは全く別物に見えた。  日焼けか祖父が吸う煙草のヤニか、はたまた台所から流れてきた油かで黄ばみ、無駄に大きなボタンや取っ手で堂々と凹凸を主張してくるそれらの家電たちを見て、娘の様子を見にやって来た父は祖母に度々言った。 「まだこんなに古いの使ってるの?新しいの買ってあげるよ」  祖母の返事は、決まってこうだった。 「いいよ。まだ使えるから」  とはいえ、それらは遥か昔、数十年前に作られた製品であり、頻繁に機嫌を悪くした。扇風機はこっそりモーターを止め、電子レンジは轟音で唸り、洗濯機は作業の途中で力尽きた。だが、家電たちはその度、祖母の手で甦り何度も奇跡の復活を遂げた。  祖母はレンチ、ペンチを巧みに操り、ネジ、モーターを取り換え、配線を溶接し直し……そんなことは全然しなかった。ただ、彼女がドンドンドンと三回拳固で叩けば、それだけで家電たちは我に返り、本来の仕事を思い出すのだった。  いとも簡単に機械を再起動させていく祖母の姿を見て、私は最初、古い家電とは叩けば直るものなのだと理解した。そして、自分の目の前で扇風機が止まった時などには祖母の真似をし彼女と同じように叩いてみもした。だが、私の拳固に打ち据えられた扇風機は、頑なに動き出そうとしなかった。  そのうち、祖父も彼愛用のラジオが壊れる度、祖母を呼んでいたことから、歳をとっている人間だからといって身に着いている技でもないのだと知り、私にとって祖母の拳固三発は、最も身近な不思議となった。  私は祖父母の家にいる間、家電の調子が悪くなる度に何度もそれらを叩いてみたが、結局、どの機械も一度として直せたことのないまま夏が終わり、新学期と父母と生まれたての弟が待つ家に帰ったのだった。 「あ……」  プシュン…とこれで何度目か、ノートパソコンが画面を黒くした。父のお下がりであるこのパソコンも、十年物。後ろから扇風機を当てても、老いさらばえたバッテリーはエアコンなしの夏の暑さには、もう耐えられないのかもしれない。  再起動をかけた後、私は保存できているかどうか怪しい、集中できないなりに努力はした一時間分の作業を思いながら、畳の床に上半身を倒した。  フローリングでもラグでもない、藺草が背に当たる独特の感触。見上げた先には洋室ばかりの実家では見ない、木目の天井。あの夏休みから十年後、私は大学の課題を持ち込み、再び祖父母の家で夏の日々を過ごしていた。  予定では、私のこの夏はこんなではなかった。三ヶ月前には、バイト先で知り合い付き合っていた彼氏と、色々と計画していた。暑い間はバイトに励み、そして少し涼しくなった頃、二人で海外旅行にでも行こうか?そんな話をしていた。  ごろりと寝返りを打つと、仏壇の前に置かれた写真の中で微笑む祖父と目が合った。私は彼の顔面にある黒子の数を数えることで、気を紛らわそうとした。 「どう?勉強すすんでる?」  祖母が突然、開け放した襖の向こうから姿を現した。サボりの姿勢を取り繕うことが出来なかった私は、それでも慌てて体を起こした。 「ちょっとパソコンの調子が悪くて」 「そうなの?」  祖母は文机を回り込んで、ログイン画面が映るディスプレイを覗き込んだ。私はパスワードを打ち込みパソコンの応答を待ったが、結果、数十秒待った後に表示されたのは真っ白な中に縦線が走る謎の画面だった。 「まじか」  私が天を仰ぐ横で、祖母の動きは自然、且つ素早かった。だから、私は彼女を止めることが出来なかった。気付いた時には、既に遅かった。  祖母はノートパソコンの端を少し持ち上げると、そのままそれをゴンッゴンッゴンッと文机に三回打ち付けた。結構、激しめに。  いや、それはパソコンとしては古いけど、平成生まれの精密機器で昭和の家電じゃないから。そんなアナログな方法じゃ、絶対無理だから。だから、要は、終わった。そう覚悟した私の目の前で、ノートパソコンは正常な作動音を奏で始めた。そして、何事もなかったようにアイコンの並ぶデスクトップ画面を表示した。  私は自分のすぐ横に座る、祖母の顔を見た。 「使えるようになったみたいね」  祖母は立ち上がると、私に聞いた。 「水ようかん、食べる?」  機嫌を直してくれたパソコンで、しかし一時間の苦労が水の泡になったことを確認した後、私は台所に顔を出した。食卓には二人分の水ようかんと麦茶が用意されていた。  祖母に菓子用のフォークを差し出された私は、さっきすぐには言えなかったお礼を言った。 「パソコン、直してくれてありがと。まさか、おばあちゃんの技がパソコンにまで有効だとは思わなかったから、一瞬びっくりしたけど」 「あら、ごめんね。一言聞けばよかったね。おじいちゃんにも、いつも言われてたわ。君は一言足りないとか、粗忽だとか」  前には祖父が書斎で使い、今は台所の隅に引っ越したラジオから演歌が流れた。男に捨てられた女の恨み節で、捨てるならいっそ殺してくれという歌詞の内容だった。  祖母の前で頂き物の水ようかんを味わいながら、捨てられたものの殺してほしくはないなと、私はこっそり思った。でも、演歌並みとは言わないでまでも、もっと強い気持ちを見せていれば、捨てられることもなかったのだろうか。   二股男に「君の気持ちがわからなかった」なんて理由で別れを切り出されて、それでも最後まで相手を強く引き留められなかった。あの時、泣き喚き、彼を詰り、あの胸を拳で強く叩いてでもいれば、二人の壊れた関係はまだ修復できたのだろうか。  曲に雑音が混ざり始め、それがひどくなっていった。祖母は椅子から立ち上がるとラジオを三回、ガンガンガンと叩いた。すると、スピーカーはまた小節の利いた歌声をクリアに鳴らし出した。 「やっぱ凄いよね、おばあちゃんのそれ」 「それ?」 「ほら、叩いてなんでも直しちゃうの」 「ああ」  祖母は自分の右の拳を手首を返し元に戻し、眺めた。 「直せてはないけどね。ただ、その場しのぎなだけで」  私は祖母と同じように自分も拳をつくり、それを見た。そして、その拳で自分の頭を三回叩いた。結構、激しめに。 「なにやってるの?!」  私は、私の腕を止めるために近付いてきた祖母の袖を引いた。思っていたよりも、子供っぽい仕草にはなってしまった。 「おばあちゃん、ちょっと私、叩いてみてよ」 「えぇ?何、突然」  その後は、祖母の目を見ては言えなかった。 「今さ、どうせ気付いてるだろうけど私、傷心状態なの。自分の何がいけなかったのか、今更考えても仕方ないこと何度も何度も繰り返し考えて、頭壊れちゃってるの。ちょっと叩いて、三回叩いて直してみてよ。その場しのぎでいいから」 「えぇ~」 「お願いします」  伴侶に粗忽と評されたその人は、孫の頭を叩きはしなかった。躊躇した後、私が自分で叩いたのと同じ箇所を、あの不思議を起こす手でゆっくりそっと三回撫でた。
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