ピアノが届いた日

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蝉時雨のじんじん鳴る日、明るさを通り越して、辺りの事物をほとんどかき消してしまいそうな、真白な光の中、僕のピアノがやって来た。 あの日。母はいつになく浮き浮きとして、子供の僕にも異様に感じられるほどだった。楽器運送業者のお兄さんたちに冷たい麦茶を供しつつ、他愛ない話に興じている。お兄さんたちの方は、はしゃぐ母に若干辟易していたのかもしれない。父が隣の部屋からふすま越しに、軽い咳払いを何度かした。 あの日。なぜ父が家にいたのか、記憶が定かではない。日曜日だったのか。いや、その日は確かに平日であった。まさか、ピアノが運ばれて来るのに合わせて休みを取った訳でもあるまい。あるいは、母を監視するためであったか? 母の何を? 何のために? 母が浮気をしていたのではないか? 少なくとも父はそれを疑っていたのではないか。後年、僕はふっとそんな気がしたことがあった。するとその相手が、あの運送業者か、その後に来た調律師の中にいたのだろうか。だとしても、父はどうしてそれを知ったのだろう。いや、あの母に限ってそんなことは。母と父は、子供の僕から見ても、至極仲の良い夫婦であった。いや、子供の僕にだからこそ、仲良く見えたのか? 業者のお兄さんたちを見送って、次に調律師さんが来るのを待っている間も、母は浮かれて口を開きっぱなしだった。 「いっそ、ピアニストなんて目指しちゃう? ああ、あたしも一緒に習っちゃおうかしら? ちょっと弾いてみてよ。ちゃんと音が響くかどうか、確かめなきゃ。ああ、なんだか喉が乾いた──」 立ち上がっていそいそと台所へ行こうとする母と、隣室から粛然とやって来た父が、一瞬、はち合って立ちすくんだ。その瞬間の父の険しい目付きと、母の微かな戸惑いの表情が、子供心に静かに焼きついた。縁側の風鈴が、小さくリン、と鳴った。 二十数年が過ぎた今でも、僕は時々あの時のことを思い出す。僕の妻が考えていることを掴みきれず、夫婦としてどうなんだろうと、少し悩ましく感じたりするときなどに。月日が経ち、記憶は誇張されているかも知れないが、なぜか、あの母と父の姿が、人生というものを象徴しているようにも思われる。 両親は今でも仲睦まじく暮らしている。兄も僕も独立して家を出た今、二人だけで淡々と、でも楽しそうに暮らしている。私たちは喧嘩なんてしたことありません、とでもいうかのように、平穏に。一度、両親と話している時に、あの時のことを聞いてみたことがある。あれは何だったのか、と。笑顔でさらっと、「そんなことがあった?」と母が言い、父はさあ、と首をかしげた。それだけだった。あとは二人して、にっこり微笑んだ。 僕は何故だか、涙がこぼれそうになった。
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