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しかしその膠着状態には、思いがけず突然に幕がおろされた。すぐそばのツツジの植え込みの陰から一人の男がスッと身を躍らせてきて、背後から卓也の頸椎にドス、と鋭い手刀の一撃を見舞ったのだ。
「ううっ・・⁉」
卓也は一瞬大きく呻くと、気を失って光太郎に覆いかぶさるような体勢でぐったりと崩れ折れた。
「土師、怪我はないか?」
卓也の両肩を持って光太郎から引き離しながら、その男が声をかけてきた。それはよく知っている人物の声だった。
「その声・・!安里先生⁉」
「まあ話は後だ。藤岡を車まで運ぶのを手伝ってくれ」
駐車場で安里がワンボックスカーの後部ドアを開けた時、また驚いたことに助手席には弥生の姿があった。
「水島部長!どうしてここに⁉」
「映見から聞いてもしやと思ったのよ・・」
弥生の口調はいつになく厳しいものだった。
「光太郎君、私言ったわよね?何かする前に必ず相談してねって?」
「す、すいません・・」
「もっと自覚してね?あなた、殺されるところだったのよ」
「藤岡はな、開放されてたんじゃあない。泳がされていたんだよ。おまえを殺させるためにな。これは人類史上もっとも卑劣な、催眠術を使った犯罪だ」
安里が重々しい口調で言った。
背もたれを倒した後部座席に意識のない卓也を載せ、光太郎はその隣に、安里は運転席に座った。
「安里先生・・。先生はいったい・・」
先ほどから光太郎は違和感を感じていた。安里のこの言葉や行動は、少なくともただの高校教師のものではないと思った。
「大丈夫よ、安里先生は味方だから」
前の座席で弥生が言った。
「俺は教師であると同時に、ある諜報機関の人間なんだ」
安里が言った。
「もともと俺は、鏡ヶ浦市で起きている子供達の失踪事件について調査をする目的でこの学校に来たんだ。だが今となってはもう身も心も完全な教師だ。一人でも多くの生徒を助けたいと、本心から思ってるよ」
「土師、よく聞けよ」
ややあって、また安里先生が言った。
「藤岡の催眠術は『大地の叫び』という教団のやつらが薬物を使って強制的にかけたものだ。おそらく深層意識にまで及んでいる・・俺にも解いてやることはできない」
「そ、そんな!それじゃ卓也は・・」
「だが、それがおまえに会わない限り自発的な行動を伴わないものなら、普通の生活には戻れるだろう」
「えっ⁉それってつまり・・」
「おまえはもう藤岡と会ってはだめだ・・。会えばまたおまえを殺そうとするはずだ。そんなことを藤岡にさせないためにも」
こんな宣告をしなくてはならないのは、安里にとっても辛いことだった。
「そんな!せっかくまた卓也と会えたのに・・」
「わかってくれ、それが藤岡のためなんだ」
(・・僕に会いさえしなければ卓也は犯罪などに手を染めず、これからも平和に暮らしていけるんだ・・ならそれが一番じゃないか)
光太郎はそう考えて納得するしか、いや無理やり自分を納得させるしかなかった。
こんな時になぜか光太郎の頭に、卓也がまだ有望な空手選手だった去年の記憶がよみがえった。
インターハイ予選で一年生の卓也は圧倒的な強さをみせていた。前年の優勝者も有名校の注目選手も、誰ひとり無名の卓也に敵わなかった。
もはや誰もが本選出場は間違いなしと思っていた。しかしその最後の最後の試合で思わぬ出来事が起こった。突然卓也は相手選手に背を向け、周りの制止も聞かずに会場を出て行ってしまったのだ。
「・・だめだ。こんなのはフェアじゃない」
それが彼が最後に言い残した言葉だった。空手を辞めたその時から、卓也は学費が全額免除となる特待生ではなくなった。
その最後の言葉の意味を今の光太郎には理解することができた。人の思考が『能力』で読めてしまう卓也は、対戦相手の試合中の動きをも無意識に読んでしまっているのではと、きっと後ろめたさを感じていたのだ。
気づけばもう完全に夜になっていた。卓也を乗せて走り去ってゆく安里先生の車が曲がり角で完全に見えなくなるまで、光太郎はその場に立ちつくしていた。
(卓也・・僕はずっときみに憧れていたんだ・・)
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