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あの子が虹を作る傘をくるくると回す。
水飛沫が辺り一面に飛び散ると、傘の上に小さな虹が架けられる。
淡い色で煌く虹は、ほんの少しだけ蜃気楼のように揺れた後、静かにゆっくりと消えていく。
そんな虹の美しさが好きだった瞳は、雨上がりには必ず傘をくるくる回していた。あの子と一緒に。
でも、突然、あの子は瞳の前からいなくなった。
まるで消えていく虹のように。
それ以来、瞳は傘を持つのが嫌いになった。
「ねぇ、瞳は天気予報ってものを見ないの? この前だって雨が降るって分かっているのに傘を持ってこないから、ずぶ濡れで帰って風邪を引いたのよ」
会社帰りのエントランスで、同僚の早苗が呆れたようにオレンジ色の傘を開きながら唇を尖らせた。
朝の天気予報通りの夕立。
曇天から降り注ぐ雨粒は、ガラス越しに鈍く銀色に光って見える。
早苗の言葉に肩をすくめた瞳は小さな声で呟いた。
「傘って、嫌いだから持っていないの」
「はぁ? 嫌いって、何なの? 風邪をこじらせて肺炎になりたいとしか思えないわ。ま、兎に角、駅に着いたら傘を一本買うこと。私も付き合うからさ」
早苗は苦笑しながらも傘を傾けて瞳を中に入れると、夕立が降る街へ向かい、ビルの扉を静かに開いた。
駅ビルにある服飾雑貨店に立ち寄り、早苗が数ある傘の中から一本の傘を抜き取って、瞳の目の前で広げてみせた。
「ほらほら、これなんてステキよ。色合いが瞳のイメージに合っているわ」
それは目にも鮮やかなペパーミントグリーンの傘だった。
白い雲のような模様が所々に浮かんでいる。
「ね、今の季節にもぴったりでしょう?」
「そうね、この時期の通り雨は青時雨って言うの。雨が止んだ後、若葉色が一際輝いて見える初夏の季節にほんとうにぴったり」
何気なく言った瞳のその言葉に早苗が肩をすくめて呟いた。
「ふぅん……、青時雨ねぇ。もしかしてさ、瞳は雨降りや傘が好きなんじゃないの? 私にはそう聞こえたけどな」
瞳はドキリとして首を振った。
「嫌いよ。だって、傘を広げたら空が隠れるもの」
早苗に無理矢理買わされたベパーミントグリーンの傘はそれから使う機会もなく、しばらく玄関の傘立てに置かれたままだった。
ある日の日曜日、駅前の書店に行く用事があった瞳が玄関で靴を履いていると、外から雨音が微かに聞こえてきた。
そっと玄関のドアを開くと、青い空が広がり、陽光が所々輝いているにも拘わらず、低くたちこめた雲から銀色の雨粒が零れ落ちていた。
「青時雨……。ううん、久しぶりの雨だから若葉雨かな」
瞳は誰言うとなく呟くと、ふと思い立ったように傘立てからペパーミントグリーンの傘を抜き取り、それを勢い良く開いた。
駅前へと行く道すがら、瞳は何年か振りに傘をくるくると回しながら水飛沫が飛び散る様を眺めて歩いていた。
多分、もう少しで雨は止む。
そうすれば、あの頃と同じように小さな虹が現れるかも知れない。
瞳がそんなことを考えながら空を仰いだときだった。
「あの、お急ぎのところを申し訳ございませんが、道をお尋ねしてよろしいでしょうか」
背後から丁寧に声を掛けられた。
瞳が立ち止まり後ろを振り向くと、空色の傘をさした背の高い男性が戸惑うような顔で立っていた。
「私が分かる範囲でしたら…」
小首を傾げ、笑みを返しながら瞳は呟いた。
「ありがとうございます。えっと、二丁目の三番地はこの先で間違いないでしょうか? 以前と街並みがすっかり変わっていて…」
小さなメモ用紙を片手に、その男性は涼しげな笑みを浮かべて尋ねてきた。
「あ、はい。二丁目はここで間違いないです。三番地は今、私が歩いて来たこの道を真っ直ぐ突き当たりまで行って下さい。その周辺が三番地です」
瞳がそう応えているあいだに雨は止み、二人の頭上に空から眩しいばかりの陽光が差し込んだ。
男性は「ありがとう」と頭を下げた後、照れ臭そうに呟いた。
「あなたの傘、今日の若葉雨にぴったりですね。青空にとても映えている」
そう言って優しげな微笑を瞳に向けた男性は、振り向きざまに持っていた空色の傘をくるくると回し始めた。
水飛沫が辺り一面に飛び散ると、煌く陽光の中に小さな虹が浮かび上がった。
虹はほんの一瞬だけ揺らめき、七色の淡い光を放ちながらゆっくりと消えていく。
瞳が呆然としてその様子を見ていると、遠ざかっていく男が又、くるくると傘を回して虹を作った。
― 虹を作る傘 ―
思わず大きな声で叫んでいた。
「待って……。待って、かずきくんでしょう?」
男性は驚いたように振り向くと、傘越しに瞳の顔を囚われたように見つめた。
「ひとみ……ちゃん?」
駆け寄ってくる彼の空色の傘が上下に揺れる。
同じように駆け出した瞳の若葉色の傘も大きく揺れる。
くるくると回る二つの傘から水飛沫が飛び散ると、二人の頭上には小さな虹の架け橋が浮かび上がっていた。
了
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