油すまし(後編)

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油すまし(後編)

 熊本で小学校の教師をしている毒島(ぶすじま)さん(四十代男性)の話。  毒島さんがまだ小学校の低学年に通っていた頃、彼は実の兄を亡くしている。……いや、亡くしたと言い切ってしまうのは忍びない。彼の兄は当時から現在に至るまで、行方不明なのだから。 「神隠し――って言うんですかね。ある日、下校途中に足どりがフッと途絶えて、それっきり。僕ら家族はもちろん、警察や地域の大人たちが総出で探したんですが、遺体はおろか、着ていた服の切れ端ひとつ見つかりませんでした。といっても、これだけならただの失踪と変わりませんよね。ただ……」  兄が消える、一、二週間ほど前。  毒島さんと兄は、奇妙なモノを見たのだという。  ある日の放課後。兄より先に帰宅した毒島さんは、二階の子供部屋で漫画を読みふけっていた。  と、階下からドアを開け閉めする音がしたかと思うと、誰かがバタバタと階段を駆け上がってくる。家族であるから、それが兄の足音であることはすぐにわかった。ただ、その勢いが尋常ではない。  不審に思っていると勢いよく扉が開かれて、兄が子供部屋に転がりこんできた。その姿を見て、毒島さんはたいそう驚いたそうだ。彼は全身汗みずくだった。それでいて顔面は蒼白で、寒中水泳の直後のようにガタガタと震えている。 「兄ちゃん、どうしたと……」  毒島さんの問いをはねつけるように、兄は言った。 「閉めろ」 「え?」 「窓ば閉めろっち言いよったい。早く!」  言い終わらないうちに、兄はみずから、開けっ放しの窓に向けて走った。  子供部屋の窓には鉄柵つきの小さなベランダがしつらえられている。初夏の夕方ということもあり、そのとき部屋のガラス窓は開け放たれ、網戸だけが閉められていた。  ガラス窓を閉ざそうと手をかけた瞬間、 「うわっ!」  と叫んで、兄はその場に尻餅をついた。  そのまま、這いずるようにしてその場を逃げようとする。兄の様子に驚いた毒島さんは、いったい何事かと視線を窓に転じ――そして見た。  ベランダの鉄柵を両手で握りしめ、男がこちらを覗いていた。  頭からすっぽり、レインコートのフードのようなものをかぶっている。夕陽を浴びて黒っぽく見えるが、おそらくは紺色。逆光になっていてもそれとわかるほど肌は白く、歯を剥きだして笑う口の中は血でうがいをしたように赤い。(たの)しげに細められた(まぶた)は妙に(しわ)っぽく、眼球の質感はビー玉のようだった。  そして何より――ここは二階なのだ。脚立でも使わない限り、ベランダを覗くことなどできるはずがない。  毒島さんはたちまち悲鳴をあげた。  兄と競うようにして階段を駆けおり、台所にいた母に「お化けが出た!」と訴える。母は少しも信じていないようだったが、あまりにも兄弟が怯えて泣くので、しぶしぶ子供部屋の様子を見にあがっていった。  もちろん、ベランダには何もいなかった。  母は念のため、子供部屋の真下の地面も確かめてみたが、脚立を置いた跡なども見当たらなかったそうだ。それでも母なりに、息子たちを心配してくれたのだろう。頭ごなしに否定するのではなく、「もう一回、どんな人やったか教えてくれる?」とたずねてきた。  毒島さんが、ベランダを覗いた男の容姿を詳しく説明しようとすると、 「やめろ」  鋭い声で、兄が言った。 「何も言うな。しゃべったら来るけん」  そう断言する兄の様子があまりにも怯えていたので、毒島さんもそれ以上は何も言うことができなかった。  兄が失踪したのは、そのあとだ。 「大人たちは、兄の失踪をお化けと結びつけたりはしませんでしたけどね。僕は怖かったですよ。兄を連れていったのは、ベランダを見ていたあいつに違いないと思ってましたから。……とはいえ、自分が大人になるにつれて、それも何かの見間違いだったんだろうと思うようになりました。兄と僕だけが見た白昼夢……集団幻覚……そういったものだったんだろうと。……ただね」  小学校の教師となった毒島さんは、生徒たちの噂話を耳にするようになる。 「最初に聞いたのは、まだ二十代の頃でしたかね。アブラーマンとか、アブラスマンとか言われてたと思います。要は、よくある怪談話ですよ。『この話を聞いたら人のところにそのナントカマンが現れて、あの世に連れていかれてしまうのです』みたいな。何世代も経るうちに名前もだんだん変わっていって、今ではブラーマとか、ブラウスマン、バスマンとか呼ばれてたりね」  話そのものの詳細を、この場で記すのは控える。ただ、筆者が毒島さんから聞かされたそれらの話が、どれもありがちな怪談話の域を出なかったことは申し添えておこう。  実際、毒島さんもはじめは気に留めていなかった。だが同じ仕事を長く続け、いくつもの学校、何世代もの生徒たちと接するうち、毒島さんはある符号に気づく。 「そのテの噂が流行った年に限って、生徒の中から失踪者が出るんです。兄と同じですよ。ある日突然、何の前触れもなく消えてしまって……それっきり」  失踪に至る状況はまちまちだ。  登下校中だけではない。虫取りにでかけた山の中で。海水浴中ふと目を離したすきに。トイレに行くと食事中に席を立ったきり。遊びに行くと電車に乗ったのを最後に、そのままふらりと消えてしまうこともある。  だからこそ毒島さんも、なかなか怪談話と失踪を結びつけて考えることができなかった。  だが、一度因果関係に気づいてしまえば、証言はいくらでも集められた。子供たちの失踪事件が起きたときは、必ずと言っていいほど「○○ちゃんはアブラーマン(ブラーマ、バスマン)に連れていかれた。この前、例の怪談話をしているのを見た」という噂がささやかれていたからだ。 「以来、子供がその手の話をしていたら、厳しく指導するようにしています。とはいえ、あまり恐怖をあおるのも逆効果な気がして……。今日、この話をしたのは、警告のためです。文字媒体でこの話を広めてもらうことで、あの話の危険性を伝えられるんじゃないかと。私の知る限り、大人が失踪した事例はありません。だから、今この話をしている自分たちは大丈夫でしょう――おそらくは」  取材場所に選んだ喫茶店で、毒島さんはそう話を結んだ。  話しながら、何度も何度も、背後のガラス窓を気にしている姿が印象的だった。今にもそこへ、紺のレインコートを着た背の高い男が立つのではないかと、不安でしょうがないようだった。  取材から一週間がたつが、筆者の身の回りには何の異変もない。  大人のもとには現れないという仮説が正しいのか、すべては毒島さんの強迫観念が生んだ幻想だったのか。だが、もしかすると――ここが物語の舞台から遠く離れた、東京であることが原因かもしれない。  だから。  もしもあなたがその土地に行き、この話を語ったならば。  ――。 ===== (あぶら)()り 東北の俗信に語られる怪異。子供をかどわかし、体を絞って油を取ると言われる。紺色のものを身につけているとされる場合もある。子供の夜歩きを戒める、隠し神や隠れ座頭、子取り鬼(ブギーマン)の一種と考えられ、同様の怪異は各地に広く分布している。 =====
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