小指大

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小指大

 旅好きの岬さん(四十代男性)から聞いた話。  あるとき、岬さんはフェリーに乗って旅行に行くことにした。夕方出港の便に乗り、夜の船旅を楽しみながら目的地に向かう、というプランだ。  当日。  出港のときを迎えた船上で、岬さんはひとり欄干にもたれ、海を眺めていた。見事な夕焼けが、水平線を(あけ)に染めている。  オフシーズンのためか、フェリーの乗客は少なかった。甲板に出ているのも岬さんひとりだけだ。地上へと目を転じれば、コンクリートの船着き場もまた、無人であった。さっきまではスタッフが出港準備に忙しく走り回っていたようだが、今はその姿もない。  いや。ひとり――いた。  白いワンピースに麦藁(むぎわら)帽の女性が波止場に立ち、こちらへ手を振っている。  岬さんはほかの乗客を見送っているのかと思い、周囲を見回したが、それらしき相手はいない。ならば船員の身内だろうか。  フェリーの甲板から見下ろすその姿は小指の長さほどに小さく、いったいどんな表情をしているかはうかがえない。笑顔で旅立ちを祝福しているのか、はたまた、惜別の涙にくれているのか。  (いぶか)しむ岬さんを他所に、女は依然として手を振り続けている。  なにやらその姿に(あわ)れみをおぼえた岬さんは、女に向かって手を振り返した。女は岬さんの行動に気づいているのか、いないのか、相変わらずぶんぶんと手を振り回している。  船の汽笛が鳴った。出港の合図だ。  フェリーの船体が、ゆっくりと(すべ)り出す。  景色が遠のいていくにつれて、船着き場で手を振る女の姿が、ぬるぬると。  岬さんは酩酊感にも似たショックを受けた。  目に映る女の大きさそのものは変わっていない。相も変わらず、小指大だ。しかし周囲のものが小さくなっていく分、相対的に女の身体が大きくなっているとしか考えられなかった。女の背はトラックの高さを越え、その奥のコンテナよりも大きくなりつつあった。  岬さんは幾度も目を(こす)ったが、女の巨大化は止まらなかった。今や女の頭は、二階建ての港湾管理棟よりも高い位置にある。これが現実だとすれば、十メートル以上の巨人だ。  にもかかわらず、誰ひとりとして騒ぎ立てる様子がない。  汽笛の重低音をバックに女はなおもぬるぬると巨大化を続け、今や親指ほどの大きさにまで遠のいた港湾部に、なおも小指の大きさで立っていた。港全体をひとまたぎするその大きさは、もはや数十メートルではきかない。  岬さんは動揺し、助けを求めて左右に視線を彷徨(さまよ)わせた。そして叫んだ。  あの女が、いつの間にかフェリーの欄干の上に立っていた。  相変わらず、壊れたワイパーのように手を振り続けている。  数十メートル離れた欄干の上に佇立する女の縮尺は人間と同じであるように見えたが、それも、女が滑るような動きで欄干上をこちらに向かってくるまでだった。  近づいてくれば近づいてくるほど、今度は逆に、女の縮尺が小さくなっていった。  正常な遠近感の下では、近づくものは大きく見えるようになり、遠ざかるものは小さく見えるようになる。しかしその女は、離れようと近づこうと、見かけ上の大きさは相変わらず小指サイズのままだった。  遠近感の狂いが岬さんの平衡感覚を揺さぶり、足をもつれさせた。  転倒の拍子に、岬さんは思わず目をつぶった。しかし、それでも女の姿は消えなかった。瞼の裏の暗闇に白々(しらじら)と浮かび上がり、なおも手を振り続けていた。  その刹那、岬さんは悟った。  女の大きさが変化したのでも、ましてや移動していたのでもないことに。  こいつは、そこにいるわけじゃない。最初から自分だけに見えている虚像だったのだ。  岬さんは、現実の景色にAR(拡張現実)のように上書きされた女の像を見ていただけなのである。  この女が、本当に存在しているのは……。  俺の頭の中だ。  そう悟ると同時に、岬さんの意識はすっと遠のいていった。  目を覚ましたときにはもう、女の姿は消えていた。  身体のほうも、そのときは特に異常は感じなかった。ただ、旅行から帰ってから徐々に左目の視力が下がりはじめ、今ではほとんど見えなくなってしまったという。  果たしてそれが、あの女と関係があったのか。それはいまだにわからない。 ===== 見越(みこ)し入道 日本各地に伝承される妖怪。夜道に現れ、こちらが見上げれば見上げるほど大きくなる。「見越した」と言えば消えてしまうが、そのまま見上げていると命を奪われることもあるという。 =====
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