病魔がくる

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病魔がくる

 三島さん(十代女性)が、小学三年生の頃のお話。  あるとき、三島さんの母親が病に倒れた。  身体がだるく、布団から起きられない。これまで行(おこな)っていた日常のなにげない行為のひとつひとつにひどい苦痛を感じる。三島さんの母は無力感に(さいな)まれ、死にたい死にたいとしきりに泣くようになった。 「今思えば、(うつ)病だったんでしょうね。お父さんは心配いらないよ、とか、ゆっくり休ませてあげればよくなるからね、とか言ってましたけど、私は心配でした。実際、病状は悪くなる一方で……父も途方にくれてたんだと思います」  そんなある日のこと。三島さんが熱を出し、学校を休むことになった。  小さなデザイン事務所を経営する父親は、心配のあまり気が気でない様子だったが、自分の仕事もある。結局、「なにかあったらお父さんに電話しなさい」と三島さんに言い含め、出勤していった。  自宅のマンションには三島さんと、自室にこもったきりの母だけが残された。  午後を少し回った頃、三島さんは喉の渇きをおぼえて、ベッドから起き上がった。どうやら熱は下がったらしく、汗に濡れた服を着替えると、すっきりした気持ちになった。  三島さんはそのまま台所へ向かった。父親が買っておいてくれたスポーツドリンクを飲んでいると、ふいにインターホンのチャイムが鳴った。 「宅急便だったら、自分が受け取らなきゃと思ったんです。お母さんはその頃、ほとんどベッドから起きられなくなっちゃってましたから」  三島さんはせいいっぱい背伸びをして、魚眼レンズからドアの外を覗いてみた。だが、誰もいない。  ――おとなりのチャイムだったのかな。  そう思って三島さんが振り向くと、自宅の廊下に知らない女が立っていた。  女はぴったりした黒い服を着て、こちらに背を向けていた。ばさばさの長い髪を垂らしている。  蛇に睨まれた蛙のように硬直した三島さんの目の前で、女は廊下をするする移動すると、扉を閉め切ったままの母親の部屋へ、吸いこまれるように消えていった。  三島さんはしばらくその場に固まっていたが、やがて勇気を奮い起こし、母の部屋に入ってみることにした。  母親を案ずる気持ちはもちろんだが、幼い子供に特有の向こう見ずさもあったという。「今、同じことがあったら、怖くて様子を見に行くどころじゃないと思います」とは、本人の言。  黒い女は母のベッドの横に立ち、ただ、じっと母を見下ろしていた。しかし、三島さんの母はひどくうなされていた。布団から半分覗いた顔は青ざめ、脂汗でてらてらと光っていた。  その光景を前に、三島さんは呆然と立ちすくんだ。  すると黒衣の女が不意に身体をねじ曲げ、三島さんのほうへと向き直った。その顔はほとんど黒髪に覆い隠されていたが、ぴったり閉じた肉厚の(くちびる)だけは明瞭に見えた。口許には、隠しようのない笑みがにじんでいた。  そして現れたときと同じくらい唐突に、女の姿はふっつりと掻き消えた。  気丈な三島さんもたまらず自分の部屋に飛んで引き返し、あとは父が帰宅するまで、布団をかぶって震えていた。  夜。三島さんは父に、自分が見たものを必死で説明したが、父親は「熱のせいで怖い夢を見たんだよ」と言って、取り合ってくれなかった。  ならばと母に尋ねてみたが、こちらはこちらで生返事しか返ってこない。これまでにも増して、母は調子が悪そうだった。  幼いなりに、三島さんは確信していた。母を病気にしているのは、あの黒い女だ。  一刻も早くなんとかしなければ、母はきっと死んでしまう。  翌日。三島さんは、今度は仮病を使って学校を休んだ。  前日におかしな話をしていたこともあって、父は特に疑わず、「なるべく早く帰ってくるからね」とだけ言い残して家を出ていった。  父がいなくなると、三島さんはさっそく、黒い女を迎え撃つ準備をはじめた。 「そのときの私、あいつは『バイキン』だと思ってたんです。……ほら、バイキンが体に入ると病気になっちゃうよって、小学生でも教わるじゃないですか。お母さんを病気にしているなら、原因であるあいつはバイキン的ななにかだろうと……今思えばツッコミ所満載ですけど、当時は真剣でした」  そこで三島さんは、家じゅうから「バイキンを殺すもの」を集めることにした。  石鹸。シャンプー。食器用・風呂用・トイレ用・洗濯用の各種洗剤。さらにバイキン=不潔に対抗するなら「きれいにするもの」だと思い、掃除機やほこり取り用の粘着ローラー、ウェットティッシュ、食器洗い用のブラシや、ネットカバーつきの食器用スポンジまで用意した。  次に三島さんは、それらを廊下に並べて「バリケード」を作りはじめた。箱入りの石鹸をドミノのように積んで壁にする。その奥に食器用洗剤をぶちまけて第二ラインを構築し、洗濯用洗剤の粉による第三ライン、トイレ洗剤の第四ライン……と続ける。母の部屋にも、そうやって十重二十重の防衛ラインを敷き、ローラーの粘着シートをトリモチ罠のように仕掛けた。  三島さん自身は、一番強力そうな武器である掃除機を抱え、母のベッドの下に隠れることにした。持ってきたものの使い途が思いつかなかったスポンジだけは、その辺に放り投げておく。  そんな大騒ぎをしても、母が目を覚ますことはなかった。三島さんにとっては好都合だったが、同時に容体が心配でもあった。  昼過ぎ。待ちくたびれた三島さんが、ベッドの下でうつらうつらしていると、また、インターホンのチャイムが鳴った。  ゆるんでいた緊張感がたちまちよみがえる。  息を殺して待っていると、果たして、黒い女は再び現れた。部屋のドアをすり抜けるようにして、音もなく部屋の中に出現したのだ。三島さんの場所からは足しか見えなかったが、昨日と同じ女であることは疑いようがなかった。  女は洗剤の防衛ラインも、粘着シートの罠もまるで意に介すことなく、滑るように近づいてくる。三島さんは、女が近づいてきたら掃除機で吸いこんでやるつもりだったが、ふと、掃除機のコンセントをつないでいないことに気づいてしまった。  無用の長物と化した掃除機を手に、途方に暮れていると、ふっと目の前が(かげ)った。  見ると、床にべったりと頬をつけて、黒い女がこちらを見ていた。相変わらず両目は隠されていたが、相手の視線を強烈に感じた。  三島さんは後ずさろうとしたが、すぐに背がつかえてしまう。そんな三島さんに向けて、女は、肉厚の唇をぱくりと開いた。  口の中には目があった。ぬめぬめと濡れて光る巨大な血走った眼球が、口のサイズいっぱいに詰まっていた。  その目を見た瞬間、三島さんは涙がとまらなくなった。吐き気と頭痛がして、身体がずしりと重くなる。くたくたに遊び疲れてなにもしなくない状態を、百倍悪くしたみたいだと感じた。  三島さんは本能的に顔をそらしたが、肌にびりびりと、女の視線の圧を感じた。悪意をたっぷり含んだ毒が毛穴から体内に染み込んできて、自分の身体を腐らせていくようだった。  三島さんは何度も母を呼んだ。けれど、すぐ真上にいるはずの母はぴくりとも反応してくれない。三島さんは狭いベッドの下で必死にもがいた。そして、たまたま指先が触れた「なにか」を、女の視線を少しでも(さえぎ)るため前に突き出した。  その瞬間、「フウッ!!」と空気が抜けるような音をたてて、女があとずさった。  同時に、これまで感じていた身体の不調が嘘のように消え失せる。  自分が握っているものを見ると、台所から持ってきたネットカバーつきスポンジだった。  三島さんが、スポンジを盾のように突き出したままベッドから這い出すと、女はまだそこに立っていた。口を裂けそうなほどに開いて、ピンク色の粘膜に(ふち)どられた眼球でスポンジを凝視している。  ――こいつは、これが嫌いなんだ。  本能的に察した三島さんは、女に向かってぐいぐいとスポンジを突きつけた。女が、じわりと後ずさる。その眼球の表面にプツリプツリと血の玉が染み出てきたかと思うと、水風船が弾けるような音とともに眼球が破裂した。  次の瞬間にはもう、女は消えていた。  大量に飛び散ったかに思えた血飛沫も、痕跡すら残っていなかった。  廊下を洗剤まみれにしたカドで、三島さんは父親にずいぶん叱られた。  けれど翌日から、母の病状は急速に快方へ向かいはじめた。こちらの呼びかけにも答えられるようになり、一週間もする頃にはベッドから起き上がって、家事ができるようになった。  以来、あの黒い女が現れることも、母の鬱病が再発することもなく、今日に至っている。 「ただ……あの女のことは、ずっと心に引っ掛かってたんです。それで、自分なりに少しずつ、両親の交友関係を調べてたんですけど……最近になって、ようやくわかったんですよ」  母の病が快方に向かった直後、父の同僚だった女性がひとり、退職していた。詳しい事情は分からないが、事故で片目を失明してしまったらしい。今の事務所の立ち上げ当時からいる古株のスタッフで、父はしきりに身を案じていたが、そのことと母の病気のことを結びつけたりはしていない様子だった。 「でも、私、思うんです。その人……お父さんのことが好きだったんじゃないかって。つまり、母に嫉妬してたんですよ」  三島さんは、不思議と確信に満ちた口調でそう語った。  そう感じた理由は「女の勘」だそうだ。 ===== 箕借(みか)(ばばあ) 関東地方の言い伝えに登場する妖怪。旧暦十二月あるいは二月の八日(いわゆる「コト八日」)の物忌みの日に家々を訪れ、ときに災いをもたらす。 これを追い払うためには、(かご)(ざる)といった「目の多いもの」を軒先に出しておくとよいとされる。箕借り婆は一つ目の妖怪であるため、目の多いものを恐れるというのである。 ===== 邪視(じゃし) 世界的に広く信じられている呪いの一種。呪いの力を帯びた視線によって他者を害する。それに対抗する「邪視避け」のお守りも広く普及しており、ナザール・ボンジュウやハムサなどが有名。これらはどちらも目玉をモチーフにしており、「目を以て目を制す」という思想がうかがえる。 =====
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