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疑似餌
額田さん(三十代男性)が大学生のときの話。
三年生の夏休み。額田さんは気の合う仲間ふたりとともに、海釣りに出かけた。
目的地は、大学から車で一時間ほどの距離にある堤防だ。護岸用に積まれた消波ブロック(いわゆるテトラポッド)の下に、大きなクエがうようよいるという噂を聞いたためである。
現地に着いてみると、海に突き出した堤防に沿って、四本の円筒から成る消波ブロックがぎっしり敷き詰められていた。
額田さん達は堤防に荷物を積み上げると、さっそく、消波ブロックの上から仕掛けを投じはじめた。密に積まれているようで、消波ブロック同士にはかなりの隙間がある。その隙間めがけて疑似餌を落とし、岩陰を好む魚をおびき出すのだ。
釣りはじめて十分も経たないうちに、額田さんの竿にアタリが来た。釣り上げたのは小さなハゼだったが、幸先のよいスタートであることに変わりはない。額田さん達は夢中で竿を振り、気づけば日が暮れかかっていた。
クーラーボックスには中サイズのクエをはじめ、メバル、アカハタ、ハゼなどがぎっしりと詰まっている。まだまだ釣れそうな気配はあったが、さすがに腹も減った。額田さん達はめぼしい数尾を残して放流すると、名残惜しさを感じつつも帰りじたくをはじめた。
そのときだった。どこからともなく、か細い声が聞こえてきたのは。
たすけて。
はじめは空耳かと思ったが、仲間達もしきりと周囲を見回している。どうやらみなにも聞こえたらしい。するとまた、
たすけて。
少女の声であった。
額田さんの脳裏に「もしや、消波ブロックの隙間に落ちたのでは?」という考えがよぎった。
積み上げられた消波ブロックに隙間があることは先刻述べたとおりだが、ここに人が落ちると、入り組んだ突起に叩きつけられて怪我をすることが多い。さらにその下にある水面に落ちれば、今度は急な流れによって、ブロックの下へと引きずりこまれてしまう。消波ブロック周辺の海水は流れが速く複雑で、自力で上がってくるのは不可能に近い。同様に外部からの救出も困難で、遺体の回収すらままならないことも多いという。
そのため消波ブロック上で釣りをしたり、周囲で遊んだりすることは、基本的に禁じられている。にもかかわらず事故が絶えないのは、当時の額田さんのように、危険性を甘く見て近づく者がいるからだ。
ともあれ、額田さんたち三人は手分けして周囲を探し回った。夕闇は刻々と近づきつつある。日が落ちてしまえば、ますます救出は困難になると思われた。
「いたぞ!」
という声があがったのは、額田さん達が釣りをしていた場所から三十メートルも離れていない地点からだった。仲間のひとりが消波ブロックの上に這いつくばるようにして、携帯電話の光を差し入れている。
彼の肩越しに覗きこんでみると、洞穴のような闇の中に、血の気を失った白い顔が浮かび上がった。
中学生くらいの女の子だった。濡れた髪が額にはりつき、細かく震えている。少女は突き出した突起のひとつに腰かけ、不安そうにこちらを見上げていた。深さは一メートルにも満たないが、華奢な少女が手がかりもなしに上がってくるにはそれでも高すぎた。怪我をしている可能性もある。
自分達が釣りをはじめる前からここにいたのだとすると……何時間、こうしていたのだろう。三時間? 四時間か? そう考えると背筋が寒くなった。早く助けなくては、命が危ない。
「額田、救急車、救急車」
穴にかがみこんでいた仲間が言った。そう言う彼はブロックのヘリから身を乗り出して、どうにか少女の手をつかもうとしている。もうひとりの仲間が無言でその腰を抱きかかえ、落ちないように支えていた。
これ以上ここにいても邪魔になるだけだと悟った額田さんは、堤防に向かって歩きながら119番をコールした。
救急センターにつながる。だがそれと同時に、背後で「ウオッ!」という悲鳴があがった。
振り向くと、ばたつくジーパン履きの脚が、消波ブロックの隙間に呑みこまれてゆくところだった。
額田さんは肝を潰して駆け戻った。ブロックのへりから下をのぞくが、少女も、それを助けようとした仲間ふたりも、どこにもいない。携帯電話の心許ないバックライトに照らされた隙間は、ただ黒々と口を開けているだけだった。
最悪の結果が脳裏をよぎった、そのとき。
光の中に、青白い顔がぬ、と浮かび上がった。
あの少女だった。真っ赤なシャツと、血の気の失せた顔がしとどに濡れている。少女は濡れ髪の間から、異様に黒目の大きな瞳でこちらを見上げると、
たすけて。
先ほどと、まるで変わらぬ調子で呟いた。
額田さんは絶叫し、堤防へと駆け戻った。つながったままの携帯電話に、釣り仲間が消波ブロックから落ちたことを訴える。あの少女のことをなんと説明すべきかと、一瞬、口をつぐんだその刹那、額田さんは信じられないものを見た。
闇に染まった海の彼方から、高波が押し寄せてきていた。
額田さんは仲間も荷物も見捨てて走った。彼がようやく陸地の土を踏むのとほぼ同時に、高波は堤防を直撃。その上にあった三人のクーラーボックスもなにかも掻っ攫っていってしまった。
駆けつけた消防による捜索が行われたが、高波に流されてしまったのか、消波ブロックから落ちたふたりが見つかることはなかった。むろん、あの少女も。
「今でも、ときどき思うんですよ。あの女の子は、俺達を釣るための疑似餌だったんじゃないかって」
以来、額田さんは一度も釣竿を握っていない。
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濡女
各地で広く伝承されている海の妖怪。女の半身に蛇体を持ち、人を獲って食らうとされることが多い。類似の怪に濡女子、磯女などがある。
島根県では、別の妖怪・牛鬼の先触れとして現れる。濡女が人間のふりをして自らの児を抱かせ、抱いた児が石になって動けなくなったところを牛鬼が襲うのである。
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