破戒

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破戒

 手嶋さん(二十代女性)の祖父にまつわるお話。  彼は手嶋さんが中学二年生の夏に亡くなるまで、田舎の寺で住職を務めていた。  七十を過ぎても気力体力ともに充実した偉丈夫で、長らく地域の弔事を一手に引き受けてきたのだが、いささか素行に問題のある男でもあった。  女――である。  手嶋さんの祖父は、とかく女性関係にルーズな男であった。若い頃はもとより、老いてもなおその性欲は旺盛で、スナックで女性従業員に言い寄る程度は日常茶飯事。ときには法事にかこつけて未亡人の家に上がりこんだり、墓参りに訪れた若い女性を執拗に庫裏へ誘ったりもした。  むろん女性たちからは、住職の振る舞いをたびたび問題視する声があがったが、そこは旧弊な慣習の残る田舎のコミュニティ。地域にたったひとりの住職という立場も相まって、彼の素行を改めさせるには至らなかった。彼の妻……つまり手嶋さんのおばあさんというのがまた控えめな女性で、夫の女漁りを止めるどころか、半ば黙認しているような有様だった。  とはいえ、そんな彼にも最期の刻は訪れた。読経の最中に脳溢血を起こしたのだ。それまで滅多に風邪もひかないような健康体だっただけに、突然の死は周囲を驚かせた。  東京に住んでいた手嶋さんとその両親は、葬儀のため祖父の寺を訪れることになった。  地域住民たちにとっては困ったジイさんだったが、手嶋さんにとっては優しい祖父だった。お盆に遊びに行くたび、祖父は忙しい法事の合間を縫って遊びにつきあってくれたり、なにかにつけてお菓子をくれたりした。  葬儀の間もそんな思い出がたびたび甦り、手嶋さんは何度も涙ぐんでしまったという。  その日の夜。  両親とともに寺へ一泊していた手嶋さんは、真夜中になってふと目を覚ました。尿意をおぼえたのである。  一緒に寝ていた母を起こさないよう気をつけながら、そっと廊下に出る。  トイレは遠く、寺の廊下は暗かった。東京の家と違い、窓から差し込んでくる街灯の明かりも、通り過ぎる車の音もない。一歩踏み出すたびにぎしぎしと鳴る板張りの廊下が、手嶋さんをいっそう心細くさせた。  そして、次の角を曲がればようやくトイレに辿り着ける、というところで――。  行く手の暗がりに、何かがフッと浮かびあがった。  人の顔だ。  禿頭に、達磨(だるま)を思わせる濃い眉。ぎょろりとした丸い目。  間違えようもない。その日送ったはずの祖父だった。  何か、フードのついた黒いローブのようなものを身にまとい、顔と手だけを出している。そのため、闇の中にその部分だけがぽっかり浮かんでいるように見えるのだった。  手嶋さんが思わず足を止めると、祖父はにこにこと笑いながら、こちらをゆっくり手招きしてきた。棺の中に収まっていたときの青白い顔とは違い、たいそう健康的な顔色をしている。  その優しい顔を見た瞬間、手嶋さんの中からは驚きの感情がすっと消えて、とても穏やかな気持ちになったらしい。  ああ、最後のお別れに来てくれたんだ――。  そう、思ったそうである。  祖父に招かれるまま、手嶋さんは彼のほうへ一歩、また一歩と近づいていった。  そして、すぐ目の前にまで迫った彼に「おじいちゃん!」と呼びかけようとした、そのとき。  祖父が突然、腕を伸ばしてきて、手嶋さんの腕をグッと鷲掴みにした。  その力の強いこと。驚いた手嶋さんがハッと顔を上げると、祖父の笑顔がすぐ目の前にあった。  相変わらず、祖父は笑っている。  しかし、それは記憶にある祖父の笑顔とは似ても似つかぬものだった。  見開いた両目がぬめぬめと光り、口元は下卑た形に歪んでいる。禿頭には太い血管が浮かび、顔色は血色が良いを通り越して、鬱血したように赤黒かった。にやにや笑いの祖父が体を近づけてくると、酒と汗のにおいがぷんと鼻をつく。  手嶋さんは怖くなって祖父の手を振り払おうとしたが、ビクともしない。それどころか、万力のような指はますます食いこんでくる。  祖父は手嶋さんの腕を強く引き、そのままどこかへ歩きだそうとした。しかし。 「あんたぁぁぁぁぁぁ!! あぁぁぁんたぁぁぁぁぁぁ!!」  突然、ものすごい怒声が響きわたった。  手嶋さんが振り返ってみると、物凄い形相の祖母が肩を怒らせ、廊下に仁王立ちしていた。ごくごくおとなしい普段の祖母からは想像もつかない、般若のような、あるいは阿修羅のような怒りの表情であった。  と、手嶋さんの傍から気配がスッと消えた。驚いてそちらへ向き直ると、祖父の姿は既になかった。  恐怖と安堵とで泣き出してしまった手嶋さんを、祖母は優しく慰めてくれた。 「怖い思いさせてごめんねぇ。わたしが、もっとしっかりしてなくちゃいけなかったのにねぇ……」  そう言って涙ぐむ祖母の姿が、今でも印象に残っているという。  ――手嶋さんの話はこれで終わりだ。  ただ、改めて当時を振り返ったことで、わかったこともあるのだという。 「当時は、おじいちゃんが私をあの世へ連れていくつもりだったんだと思ってたんです。ほら、死んだ人が親しい人を『引っぱる』なんて言うじゃないですか。……でも、大人になって……おじいちゃんの素行とか、おばあちゃんがあんなに怒った理由とかを考えてみると……たぶん、そういうことだったんですよね」  おそらく、そういうことだったのだろう。  代わりの住職が見つからなかったことと、地域の過疎化もあって、寺は現在、廃寺となっている。周囲を取り巻く農道も手入れが行き届いていないようで、足元には雑草が生い茂り、伸びすぎた街路樹の陰になって薄暗い。  ただ、女性の独り歩きを戒める不審者注意の看板だけは、定期的に新しいものが掲げられているという。 ===== 天狗(てんぐ) 山中に棲むとされる妖怪。山中の異音や不自然な落石、神隠しなどの原因とされることもある。 僧形、とりわけ山伏の姿で図像化されることが多い。一説によると、堕落した僧侶は死後、天狗と化すのだという。 =====
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