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最強の事故物件
前園さん(三十代女性)によると「前に住んでいたマンションが、最強の事故物件だった」そうである。
詳しい話を聞かせてもらった。
彼女が問題の物件に住んでいたのは五年ほど前。兵庫県某所に位置する、三階建てのマンションであった。
前園さんが不動産屋の仲介でその部屋を内見したとき、部屋には何ら不審なところはなく、むしろ南向きで日当たり良好な感じのいい部屋だったらしい。不動産屋の担当から特別な告知を受けることもなければ、家賃がとりわけ安いわけでもない。
少なくとも入居前の段階において、そこが「出る」部屋であることを示す証拠は何一つ存在しなかったと言える。
にもかかわらず、その部屋は「出た」。
前園さんが問題の部屋に住みはじめてから二ヶ月ほど経った、ある日のことである。
残業で夜遅く帰宅した前園さんが自室のドアをくぐると、奥のリビングから、何やらごそごそという物音が聞こえてくるのに気づいた。
リビングには、ペットのハムスターのケージがある。おそらくはそれが、床材のおがくずに穴でも掘っているのだろう。
前園さんはそれ以上気に留めず、リビングに踏みこむと、照明のスイッチを入れた。
蛍光灯の青白い光がリビングに満ちる。
顔にモザイクめいた「ぼかし」の入った女が、部屋の真ん中にしゃがみこんで、しきりにロウテーブルを引っかいていた。
「ひゅっ」
前園さんの喉が笛のような音を立てると同時に、女は煙のようにかき消えた。
一瞬のことで、女の容姿をはっきり確かめる時間はなかった。女が爪を立てていたロウテーブルにも、これといって何の痕跡もない。
だが、確かに見た。
前園さんはまんじりともせずに一夜を明かした。
まさか、幽霊の出る部屋だったなんて。どうしよう。出て行ったほうがいいのかな。だけど、引っ越したばかりでお金もないし――。
そんなことを考えているうちに、カーテンの隙間が白々と明るくなってくる。朝がきたのだ。
たとえ家に幽霊が出ようと、会社には行かねばならない。前園さんは鉛のように重い頭を振りながら、シャワーを浴びるために寝室を出た。引き戸を開けると、すぐそこは例のリビングである。
そこに、足軽がいた。
後頭部から背中にかけて何十本もの矢が突き刺さり、まるでヤマアラシのようになっている。夜明け直後の青みがかった光の中にぼうっと突っ立っていた足軽は、白く濁った目で前園さんのほうを見たかと思うと、パッと消えた。
前園さんは腰を抜かしてしまい、結局、その日は仕事に行くどころではなかったのだという。
怪しいモノ達はそれからも、昼夜を問わず現れ続けた。
異様に巨大な頭部にゴマ粒のような目鼻をもつ子供。ぬるぬるした光沢を帯びた黒い人影。数珠つなぎになって天井からぶら下がる犬の生首。リビングいっぱいを占有する大きな黒電話。真っ赤な筋肉を剥き出しにして痙攣する兎。長い白髭に生きた鶏を絡みつかせた老人。雑に積んだ達磨落としのように全身のパーツがズレている男。ネオンカラーに光りながら空中を泳ぐ金魚。人の目玉でいっぱいの中華どんぶり。鼻と口から素麺状の物体を吐き出し続ける女。壁をびっしり埋め尽くすパステルピンクのキノコ。右半身だけが半透明に透けている幼女。
そんな怪物どもが三日もあげずに姿を現したというから、稲生武太夫の逸話もかくやと言わんばかりの怪異っぷりである。
部屋に帰るのが恐ろしくなった前園さんは、ファミレスで夜を明かしたり、ホテルに泊まったりもしたが、そんな生活が長く続くはずもない。泣く泣く部屋に戻っては、またぞろ現れた怪異に悲鳴をあげる――そんな生活を繰り返していたそうだ。
ただ怪異と付き合ううちに、少しずつだが法則が見えてきた。
ひとつ。怪異は決まって、リビングで起きる。他の部屋では起こらない。
ひとつ。たいていは数秒、長くても数分で消えてしまう。
そのことがわかってから、前園さんの怖さは格段にやわらいだそうである。リビングに入るときさえ気を張っておけばよく、危害を加えられる恐れもない。入浴中や就寝時にも、安心してくつろぐことができるようになった。
「とはいえ、不気味は不気味ですから、お金ができ次第、引っ越そうと思ってたんですけど……」
怪異が起きはじめて三ヶ月ほど経ったある日、前園さんは久しぶりに、ハムスターのケージを洗うことにした。本来は一ヶ月に一度くらいの大掃除が必要なのだが、怪異への対応に追われて、つい後回しにしてしまっていたのだ。
ハムスターを別のカゴへ移してから、ケージを風呂場に持ち込んで水洗いする。すっかりきれいになったケージをリビングの定位置に戻し、いざハムスターを戻そうとした瞬間――。
前園さんの眼前、ほんの数センチほどの至近距離に、男が現れた。
顔中が真っ赤なニキビでびっしり埋め尽くされている。大きいものではミニトマトほどもあるそれらがブチュブチュと音を立てながら裂け、黄色い膿を噴き出すのを見て、怪異に慣れつつあった前園さんもさすがに悲鳴をあげた。
のけぞった拍子に、ハムスターを入れていたカゴを取り落とす。
カゴから飛びだしたハムスターは本棚の裏へスルリと逃げ込み、そのまま姿を消してしまった。ハッとしたときにはもう、例のニキビ男もいなくなっている。
本棚の裏には逃げ場などないはずなのに、どれだけ必死に探しても、二度とハムスターを見つけることはできなかった。
不思議とその一件以来、リビングに怪しいモノが現れることはなくなったが、ペットを奪われた前園さんの恐怖はいや増した。
前園さんは間もなくその部屋を引き払い、今は別のマンションで平和に暮らしている。
――前園さんの話は、これで終わりだ。
さて、問題の部屋についてだが、それだけの怪異が発生していながら、不思議と「いわく」のようなものは発見できなかった。事故物件情報を集めている某サイトにも記載はないし、過去に墓地や病院だったという事実もない。
人が死んでいない――要するに、そもそも事故物件などではないのだ。
さらに言えば、前園さんの退去後に住人の入れ替わりが激しくなったり、借り手がつかなくなったりということも起きていない。
それでも前園さんは、あの部屋には何か悪いモノがいたのだと譲らない。
「あの子(飼っていたハムスターのこと)は、私の身代わりになってくれたんだと思うんです。お化けが出なくなったのは、あの子を食べて、一時的に満服になったからなんですよ。あのまま住み続けていたら、きっと私も……」
最後に、今も大事に保存しているというハムスターの写真を見せてもらった。
毛色は灰・茶・黒の三色。鼻先はとがっていて……目の周囲に隈取りのような模様がある。
――あまりハムスターらしくは見えない。
どこで購入したのか前園さんに訊ねると、
「買ったんじゃなくて、捕まえたんです。あの家に引っ越して、二ヶ月くらい経った頃かな。酒屋さんの前の側溝で、ぐったりしているのを見かけて……」
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豆狸
「まめだ」とも呼ぶ。一説には、人を化かすのは普通の狸ではなくこの豆狸であるという。酒造との関わりが深く、酒蔵に好んで棲むとも言われる。
大きさについては諸説あり、犬くらいだとされることもあれば、特別に小さい狸だと言われる場合もある。
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