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転落防止ネット
安達さん(五十代男性)から聞いた話。
あるとき、安達さんの所有するマンションで、子供の転落事故があった。
マンションは四階建て。各部屋に通じる廊下はコの字型をしており、中央は吹き抜けになっている。事故に遭った子供は四階の廊下から手すりを乗り越え、約十メートル下の中庭に叩きつけられて亡くなっていた。
痛ましい事故だった。
安達さんは再発防止のため、廊下中央の吹き抜けに転落防止用のネットを取り付けることにした。中庭の景観は損なわれるが安全には代えられない。ネットは二階の高さに、吹き抜けを完全に塞ぐ形で取り付けられた。強度も充分なものを選んだので、たとえ人が落ちたとしても、大事には至らないはずだった。
ネットを設置した数週間後、再び人が落ちた。
その男性もまた、中庭に叩きつけられて亡くなっていた。彼を受け止めるはずのネットはまっぷたつに裂け、力なく垂れ下がっていた。切り口が鋭利だったことから、ネットの不備ではなく、刃物を用いて人為的に切断したのではないかと疑われた。
亡くなったのはマンションの住人ではなく、その知人だった。
二階の部屋で、深夜まで住人と酒を酌み交わしていた彼は、酔い覚ましに歩いて帰ると言い残して部屋を辞した。そしてその足で四階まで登り、手すりを乗り越えて身を投げたらしい。四階の廊下に、彼の鞄が遺されていた。遺書などは見つからなかった。
状況から自殺とも考えにくく、泥酔した末の過失ということで決着がついた。
一方、ネットを切った犯人は見つからずじまいだった。
落下した男性の所持品からも、頑丈なネットを切断できるようなものは見つからなかった。
安達さんは釈然としないものを腹に抱えたまま、急ぎネットを新しいものに張り替えた。
だが、それからもネットはたびたび切られた。
手口はいつも同じ。鋭利な刃物でまっぷたつにされていた。
何度ネットを取り換えても、数週間のうちに必ず切られる。警備会社に見回りを依頼したりもしたが、効果は上がらなかった。
二度めの死亡事故以来、転居者が後を絶たなかったことから、安達さんは焦り、次第にネットを切る犯人に対して怒りをつのらせるようになった。そして、こうなったら自分の手で捕まえてやろうと、自ら深夜のマンション内を巡回しはじめた。
巡回をはじめて、一週間ほど経ったある夜のこと。
中庭の周囲を見回っていた安達さんは、奇妙な物音を聞いた。
ぶつ……ぶつ……ぶつ……。
まさしく、刃物で綱を切断する音だった。
ついに犯行現場を押さえた!
安達さんは、音のするほうへと、手にしていた懐中電灯の光を向けた。真新しいネットが三分の一ほど切り裂かれ、だらりと垂れ下がっている。犯人らしき者の姿は見えない。光に気づいて逃げ出したかと思った安達さんは階段へ向かおうとして、ふと、足を止めた。
まだ音がしている。
ぶつ……ぶつ……ぶつ……。
もう一度ネットを照らす。光の中に、真っ白なネットが浮かび上がった。安達さんが見ているその目の前で、網目がひとつ、またひとつ、ぶつりぶつりと切り裂かれてゆく。
だが、そこには誰の姿もない。
呆然とする安達さんの目の前で、無残に切り開かれたネットが力なく垂れ下がった。
安達さんは慌てて逃げ帰ると、それきり深夜の巡回をやめてしまった。
マンションはその後、人手に渡ったが、程なくして閉鎖された。
廃墟となった今でも、ときおり敷地内に入り込んで飛び降り自殺をする者がいるらしく、地域で問題になっているという。
自治体は立ち入りを禁止するために金網のフェンスで入り口を覆ったが、効果は上がっていないという。何度交換しても、いつの間にか切り裂かれてしまうからだ。
鋭利な刃物で断ち切ったかのように、すっぱりと。
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網剪
鳥山石燕『画図百鬼夜行』に描かれている妖怪。解説文はなく、詳細は不明。前肢に甲殻類の鋏のような特徴が認められる。
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