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冷たい女
津島さん(五十代女性)宅の冷蔵庫にまつわる、奇妙なお話である。
はじまりは二十年以上前の、ある春の日のこと。
幼稚園に通う津島さんの息子が、おかしなことを言いはじめた。
冷蔵庫の中に、知らない人がいる――というのである。
息子いわく、カルピスのボトルを取ろうと冷蔵庫の扉を開けたところ、白い服を着た女性が中に座っていた。
彼女は狭い庫内で膝を抱え、横向きの体勢で、冷蔵庫の壁をじっと見つめていたそうだ。
「そんなことあるわけないでしょ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、津島さんはまともにとりあう気がしなかった。
それでも息子はそれから数ヶ月の間、怖がって冷蔵庫に近づこうとしなかった。代わりに「アイスとって」「ジュースとって」と津島さんに頼むようになったので、津島さんはたいそう迷惑したそうだ。
そんな出来事がありつつも、それから数年間は、何事もなく過ぎた。息子も小学校にあがり、冷蔵庫を怖がるようなこともなくなった。
だが、夏も盛りの蒸し暑い夜のこと。晩酌の途中、夫がふと深刻そうな顔になったかと思うと、こんなことを言いはじめた。
「もしかして俺、疲れてるのかな」
「なあに。どうしたの急に」
「いや、実は、昨日……」
夜遅くまで起きていた夫は、就寝の直前になって、ふと空腹をおぼえた。寝る前に食べるのはよくないなと思いつつ、ついつい、冷蔵庫のほうに足が向く。
何かつまめるものを求めて冷蔵庫を開けると、中には、夕食の残りを詰めたタッパーや漬物のパック、ジャムの瓶などがみっしりと詰まっていた。そして。
タッパーとタッパーの隙間から、黒々とした毛の束がはみ出していた。
なんだこれ。
てっきり乾燥コンブの類かと思ったらしい。
夫は何気なく、それを引っぱり出そうとして――指先にさらりとした手触りを感じた瞬間、反射的に飛び退いていた。
明らかに――人間の毛髪だった。
あっけに取られていると、夫の目の前で、髪の毛はタッパーの隙間へしゅるしゅると吸いこまれていった。慌てて、もう一度覗きこむ。
みっしり詰めこまれた食品の隙間から覗く目が、じっとこちらを見据えていた。
津島さんはすぐ、幼い息子から聞かされた女の話を思い出したが、それを夫に伝えることはせず、「きっと見間違いよ」となだめてうやむやにしてしまった。言ったところでどうしようもないし、下手にことを大きくして「冷蔵庫を買い替えよう」という話になっても面倒だと思った。
そんなお金があるなら、洗濯機のほうをとっとと乾燥器つきのものに買い替えてほしかったのだ。
それからさらに数年後。息子の小学校卒業を控えた、秋の夕暮れ。
買い物から帰った津島さんは、大量に買いこんだ食材を片っ端から冷蔵庫へ詰めていた。いちいち開け閉めするのが面倒なので、つい、庫の扉を開けっぱなしにしてしまう。程なくして、冷蔵庫がピーピーと抗議の警告音を鳴らしはじめた。
「はいはい、わかってるわかってる……」
誰にともなく返事をしながら、ベーコンのパックを片手に冷蔵庫へ向き直る。
瞬間、ぱたんと音をたて、目の前で扉が閉まった。
冷蔵庫の中から白くほっそりした手が伸びてきて、扉を閉めた――ように、見えた。
津島さんはそっと冷蔵庫を開けて中を確かめてみたが、どこも変わったところはなかったので、それ以上は深く考えないことにした。
その翌年、津島さんの息子は中学生になった。成長期の男子はとにかくよく食べる。必然的に買い置きの量が増え、これまでの冷蔵庫が手狭に感じられはじめた。もう十年以上も使っているし、さすがに買い替え時だろう。そのほうが電気代の節約にもなる。
冬のある夜、津島さんは夫にそのことを切り出してみた。交渉の末、「じゃあ週末にでも電機屋へ見に行こうか」という言葉を引き出した津島さんが、心の中でガッツポーズを決めた瞬間。
ぱたん。
すぐ背後のキッチンから、冷蔵庫の扉が閉まる音がした。
そこには誰もいない。だが、確かに聞こえた。
津島さんと夫が様子を見に行ってみると、冷蔵庫からキッチン裏の勝手口へ、一直線に裸足の跡が残っていた。冷凍食品のパッケージにこびりついているような、薄い霜でできた足跡で、触ると指を切るほどに冷たかった。
勝手口には鍵がかかっていたが、足跡は外の靴脱ぎ場へと続いており、そこから庭に薄く積もった雪の中へと溶けこむようにして消えていた。
以来、津島さん宅で不思議なことは起こっていない。
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つらら女
雪女の異称のひとつ。民家へ一夜の宿を借りに現れたものの、入浴を断り切れずに風呂場で溶けてしまったという話が知られている。
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