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電話相談
「自殺を考えたことがあるんです」
笹岡さん(四十代男性)は、そう話を切り出した。
原因は仕事だった。入社六年目。堅実な苦労が実ってようやく大きなプロジェクトを任されたものの、スケジュールはカツカツ。クライアントの気まぐれな仕様変更に振り回され、苦労して仕事を覚えさせたばかりの新入社員が次々と辞めてゆく。気づけば、笹岡さんひとりに膨大な作業が集中する形になっていた。
残業、泊まりは当たり前。もちろん休みなど取れるはずがない。
そんな生活が、一年近くも続いたときだろうか。笹岡さんはある日、糸が切れたように、何もかもが嫌になったのだという。
入社以来はじめての無断欠勤をして、県境の山へと車を走らせた。
ビルの屋上や電車の駅は、人目が多そうで嫌だった。できればひっそりと、誰にも知られないまま消えていきたかった。
その山が「自殺の名所」化しているというのは、以前、ネットの記事を見て知っていた。山頂近くの広場に車を停め、ネットの情報を頼りに山中を彷徨うこと数時間。遂に笹岡さんは、お目当ての自殺スポットにやってきた。
そこは、ごつごつとした岩肌の露出する断崖絶壁だった。転落すれば、飛びだした岩石に幾度も身体を叩きつけられることとなる。助かる可能性は万にひとつもない。
実際に多くの命を呑みこんできた断崖の威容は、笹岡さんが思っていたよりもはるかに荘厳で、はるかに恐ろしいものだった。衝動を頼りにここまで突き進んできた笹岡さんだったが、そこを覗きこんだ瞬間、はじめて迷いのようなものが生まれた。
覚悟を決めかねて、周囲を見回す。
ふと、伸び放題の雑草の中に、鮮やかなブルーの看板が立っているのに気づいた。「たったひとつのいのちです」――そんな文言とともに、ひとつづきの数字が記されている。自殺者の相談に乗ってくれるという、電話サービスの番号だった。
見ず知らずの他人に話したところで、自分の苦境がどうにかなるものでもない。
だが、もしも――もしも誰かが、自分の悩みを受けとめてくれたならば――久しく触れていない、人の善意を感じることができたならば――こんなふうに、慌てて人生の幕を引かなくてよいのではないか。
そんな気持ちが、ふいに芽生えたのだった。
少し悩んだ末、笹岡さんは、看板に表示された番号をコールしてみた。
生きるべきか、死ぬべきか。ちょっとした賭けのつもりだったという。どうせ一度は捨てる気になった命。賭けに負けて「やっぱり死のう」となったところで、損など何もない。
緊張感とともに、コール音を聞くこと数分。
『はい、どうしました?』
スマートフォン越しに、なんとも優しげな声が聞こえてきた。
「ええと。私は、その――ええと……」
何と切り出したらよいものか逡巡する。だが向こうも心得たもので、すぐに、こちらの状況を察してくれたようだった。
『――ああ、なるほど。最後に、ご自分の運を試そうとなさったんですね。誰かが悩みを受け止めてくれたのならば、最後の一歩を思いとどまろうと』
「え――ええ。まあ」
『どうして、そんなことまでわかるのかとお思いでしょう? 私もね、長くやっていますからね。まあ色々とね』
「そう……なんですか」
『そうなんですよ。さあ、どうぞ。遠慮なさらず、あなたのことを話してください。ゆっくりでいいですからね』
相手の声色はあくまで穏やかで、聞いているうちに少しずつ、笹岡さんの緊張もほぐれてきた。笹岡さんがぽつりぽつりと身の上話をはじめると、電話の相手は熱心にうなずきながら耳を傾け、しみじみとした吐息を漏らした。
『なるほどねえ。それは大変でしたねえ』
「……はい。自分で選んだ仕事を、途中で投げ出すなんて……許されないないとはわかっているんですが」
けれど、もうすっかり嫌になってしまったのだ。
『でも、もうすっかり嫌になっちゃったんでしょう? このまま続けていてもね、あなたに仕事を押しつけた人達は痛くも痒くもないですからね』
「やっぱり、そうですか」
このまま続けても、自分ひとりが潰されて終わり。それなら、いっそ――。
『はいはい。このまま続けても、あなたひとり潰されて終わっちゃいますからね。いっそ、思い切って楽になったほうがいいんじゃないかと思っちゃうのは人情ですよね。ええ、わかります。わかりますとも』
電話相手は弱気を叱りつけるでもなく、上滑りする綺麗事を吐くでもなく、ただただ、笹岡さんの気持ちを肯定してくれた。笹岡さん自身ですらうまく言語化できない、鬱屈した感情を巧みに引き出す相手の話しぶりに、笹岡さんはいつしか、ただ相槌を打つだけになっていた。
『だからって円満に退職できたら満足ってわけでもないんでしょう?』
「……ええ」
『ここであなたが抜けたいなんて言いだしたら、プロジェクトはおじゃんですからね。上司はあなたに責任をおっかぶせてくるでしょう。鳥野も両国もそういう男ですからねえ』
鳥野というのは笹岡さんの直属の上司の名。両国というのは散々無理難題をひっかけて来た、クライアント側の代表者である。
『どうせなら、一矢報いてやりたいですものね。自分ひとり、黙って貧乏くじを引かされるくらいなら、ドーンとことを大きくして、ね』
「ええ、はい」
『おとなしく潰されてたまるかって話ですよねえ。お前らは人ひとり殺したんだぞって十字架をね、背負わせてやりたいですよね』
「はい。そうです。そのとおりです」
相手の言葉は、からからに干からびたスポンジが水を吸うように笹岡さんの心に染み込んでいった。こんなにも自分を理解してくれる人に出会ったのは初めてだと、笹岡さんは感動すら覚えた。何ひとつ、疑問を感じることはなかった。
『うん。それじゃあ、もう迷うことはありませんね』
「はい、ありがとうございます」
『すぐ楽になれますからね。元気よく、飛んでくださいね』
「ありがとうございます。そうします」
笹岡さんは電話を切ると、この上なく晴れ晴れとした気持ちで崖に向かって歩き出し――転んだ。
偶然、登山客が捨てていった缶コーヒーの空き缶を踏んでしまったのだ。
足元をまったく見ていなかったのが災いした。
スチール缶を踏んだ瞬間、笹岡さんの足首は妙な角度にねじれ、まったく受け身も取れないまま岩だらけの地面に叩きつけられた。顔面をしたたかに打ち、鼻血があふれた。
ちょっと力を入れようとしただけで、足首に激痛が走る。歩くことはおろか、立ち上がることすらままならない。崖から飛ぶなどもってのほかだ。
笹岡さんは苦痛にあえぎながら身体を仰向けにし、先ほどの電話の主に指示を仰ごうと、スマートフォンの発信履歴を開いた。
だが奇妙なことに、履歴にそれらしい番号がない。
ならばと思い、先ほどの看板に目を遣ったところで凍りついた。
看板のペンキはとうに色褪せ、元の図柄もわからないほど真っ赤に錆びついていた。電話番号など読みとりようがないし、よしんば読めたとしても、こんな古い看板に記載された番号が生きているとも思えなかった。
だったら――自分はさっきまで、どこに電話をかけていたのだ。
途端に、これまで見過ごしていた違和感がドッと押しよせてきた。
なぜ自殺を止めるどころか、逆に唆すような話しぶりだったのか。
なぜ話したおぼえもない、上司や取引先の名前を知っていたのか。
そして、何より――優しい声だったという印象だけはあるのに、相手が男だったのか女だったのか、若かったのか年老いていたのか、そんな基本的なことさえ、一切思い出せないのはどういうわけなのか。
あいつは――何だ。
視界の端で、森の下草がわさわさと動いた。
何かいる。
茂みの中に身を潜め、じっとこちらを観察している。死ぬのを、待っている。
笹岡さんはすぐさま110番をかけ、警察に自分の状態を報せた。それから山岳救助隊に助けだされて山を降りるまでの数時間、まったく生きた心地がしなかったそうだ。
「一番ゾッとしたのは……担がれて山を下りるとき、救助隊の人がポロッと漏らすのを聞いたときでしたね」
笹岡さんは苦笑いを浮かべながら、そのときのことを述懐する。
「あの崖から落ちて飛んだ人達ね、みんな、遺体がひどく損壊してるそうなんですよ。もちろん、転落の過程で身体がバラバラになってしまうことも多いんですが――それだけじゃなく、決まって、何か獣みたいなものに食い荒らされているんだと」
それから間もなく笹岡さんは退職し、今は別の業種で働いている。
問題の崖では今でも、年に数人が飛ぶ。
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覚
山に棲むとされる怪異。人の考えを読み、隙を突いて食らおうとするが、爆ぜた焚火に驚いて逃げ去ってゆく……という民話で知られる。
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