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二段構え
椎名さん(三十代男性)が体験した話……と書くと、いささか語弊があるかもしれない。彼自身が何か奇妙なものを見たわけではないからだ。しかし彼は偶然にも、他人が不可解な体験をする、その現場に居合わせてしまったのである。
数年前のことだった。椎名さんは映画を見た帰り、昼食を採るために駅周辺の繁華街へと足を伸ばした。表通りから一本奥へ入ったところに小洒落たラーメン屋を発見し、のれんをくぐる。
「いらっしゃい!」
厨房の奥から、バンダナを巻いた店主が威勢よく迎えてくれる。
昼食時にもかかわらず、店内には空席が目立った。
ハズレだったかな、などと思いつつ、まだ真新しいカウンター席のひとつに腰を下ろす。
だが彼の不安は、注文したラーメンが供された瞬間に吹き飛んだ。麺のコシ、スープのコク、具材のチョイス、どれも文句なしの一級品だったからだ。隠れた名店を発掘した喜びに、椎名さんは内心小躍りしたい気分だった。
これは近いうちにまた足を運ばなくては、などと考えながらスープをすすっていると、食事を終えた客のひとりが席を立った。椎名さんよりも先に入店していた、同年代くらいの男性だった。
男性は会計を済ませ、入り口のガラス戸に向かうと――突然、うわあッと悲鳴をあげてのけぞった。慌てて店内へ駆け戻ると、柱の陰に身を隠す。
まるで恐ろしいものでも見たようなその反応に、椎名さんはゴキブリでも出たのかと思った。だが、ガラス戸のほうへ目を遣っても、それらしい姿はない。
レジ越しに男性の様子を見ていた店主の眉が、困ったようにひそめられた。
「お客さん……大丈夫ですか」
振り向いた男性客は顔面蒼白で、額にびっしりと汗の玉が浮いている。彼はすがるような目で店主を見ると、震える声で言った。
「あ、あの、すいません……裏口、使わせてもらえませんか」
「いや、それは……」
言い淀む店主に、男性は必死の剣幕で食い下がる。
「お願いします。そこから出たくないんです」
「いやあ、それはちょっとね……やめたほうがいいですよ」
「あんた、わかってないでしょう! いるんですよ、そこにッ」
男性はヒステリックにそう叫ぶと、吐き気をこらえるように口元を押さえた。
以下は、そのときの男性の主張を整理したものである。
彼は食事をしているときから、店の外に何やら奇妙なものがいることに気づいていた。
その店はドア部分だけが普通の透明なガラスで、道に面した部分のほとんどには摺りガラスが張られていた。その摺りガラスに、異様に大きな頭をしたものがへばりついていたというのである。
摺りガラス越しであるため、仔細は窺い知れない。ただ寸詰まりな胴体と、まん丸で巨大な頭部のシルエット、そして真っ赤な色だけははっきり見て取れたという。
男性ははじめ、パチンコ屋か何かの宣伝に使う、マスコットの着ぐるみかと思ったらしい。それにしてもなぜ、そんなものがラーメン屋の店先に?
マスコットの本分を果たしているようには見えない。具合が悪くて休んでいるふうでもない。赤い着ぐるみは摺りガラスに両手をつき、店内を覗きこむような体勢のまま、じりじりと横歩きをしていた。出入り口の透明なガラス戸に向かって、少しずつ、少しずつ。
不審に思いながらも、男性は食事を終えて会計を済ませ、ガラス戸に向かった。ちょうど、例の着ぐるみがガラス戸の前にさしかかるタイミングだった。初めて、その姿がはっきりと見えた。
縦にスライスしたトマトを思わせる、輪切りの人体がそこにいた。
あたかもCTスキャン画像のようにあらゆる臓器の断面が剥き出しになり、真っ赤な肉を晒している。厚みは普通の人間の半分ほどしかない。
カットしたゆで卵のような目玉も白子に似た脳も、ぽっかり空いた口腔内の舌も、液体にまみれて濡れ光り、ぷるぷるひくひくと細かく蠕動している。断じて作り物ではなかった。
それはガラス戸の前に立ち尽くす男性に向けて、まるで待ち構えるかのように両手を広げてみせた。大きくて扁平な頭部が、厚切りハムのように波打った。
そこまで一気に語り終えると、男性は少し落ち着きを取り戻したのか、ほう、と溜息をついた。
「こんなこと言って、頭のおかしい客が因縁つけに来たんだと思ったでしょうね。別に、何と思われたって構いません。ただ、そこの扉から出るのだけは……」
「ああ、いえ。疑ってるわけじゃないんですよ。ただね……」
店主は気まずそうに口をすぼめると、やがて低い声で言った。
「そう言って裏に回ったお客さんみんな、もっと厭なモノ見てるんです」
途端に、あれほど興奮していた男性客がスッと静かになった。
「しばらくしたら、いなくなるらしいんで」
店主は静かに言うと、男性をカウンター席へとうながした。無言で彼の前へビール瓶を置く。椎名さん自身はそこで店を出たため、そこから先のことはわからないという。
ラーメン屋の前に出たところで左右を見回してみたが、頭でっかちの輪切り人間はおろか、あたりには猫の子一匹いなかった。
一年ほどしてから近くを通りがかったおり、椎名さんは問題の店をもう一度訪ねてみたが、とうに空きテナントになっていたという。
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朱の盤
江戸時代の奇談集、老媼茶話などに登場する妖怪。真っ赤で恐ろしげな顔が特徴。化け物に驚かされて逃げこんた先で同じ化け物にまた驚かされるという、「再度の怪」タイプの逸話が伝えられている。
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