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S水族館
自分がいるはずのない時間・場所に「もうひとりの自分」が現れる。もしも、その「もうひとり」と出会ってしまったら、遠からず命を落とすことになる――。
こうした現象は俗に、ドッペルゲンガーと呼ばれている。
遠野さん(二十代女性)の幼少期の体験は、どこかそれに通じるものがあるようだ。
遠野さんが小学校に上がるよりも前のこと。家族旅行で東京にやって来た遠野さん一家は、I地区に建つS水族館を訪れていた。
これは余談だが――水族館を擁するSビルの周辺は、かつて有名な拘置所が存在しておいた影響か、何かといわくの多い土地であり、Sビル自体にもいくつかの怪談話が伝えられている。
閑話休題。
その日は、幼い遠野さんにとって人生初の水族館体験であった。
水槽を泳ぐ色とりどりの魚たちや、摩訶不思議な姿のイカやタコ、ヒトデやクラゲといった生き物たちにすっかり魅了され、彼女は水槽にむしゃぶりつくようにして中を見つめていたという。
そんな楽しい時間のさなか、それは、ふいに姿を現した。
大型のエイと魚群が泳ぎ回る、大型水槽を見ていたときのことだ。遠野さんは青みがかった水中に、魚とは明らかに違う影を認めた。
幼い少女がこちらに背を向け、水中にしゃがみこんでいる。
赤い花柄のワンピース。ピンクのサンダルに、ビニールのバッグ。麦わら帽子からは、ふたつに結んだおさげ髪が伸び、ポンプの作る水流にゆらゆらと揺れている。
少女は、頭の上から足先に至るまで、その日の遠野さん自身と寸分違わぬ格好をしていた。
遠野さんは不思議に思いつつも、幼いなりに知恵を働かせ、あれはガラスに映った自分の鏡像なのだろうと考えた。むろん、鏡であれば後ろ姿が映るのは不自然なのだが――あいにく、そこまでの判断はつかなかったらしい。
遠野さんはしばし、魚群の向こうに佇む自分の「鏡像」に目を奪われた。水槽の中の自分はこちらに背を向けたまま、両手に抱いた何かをあやすように動かしている。ちらちらと見えるオレンジ色から、大きなクマノミのぬいぐるみだとわかった。
入り口近くで他の子供が抱いているのを見ておねだりし、両親にすげなくあしらわれたばかりの品だった。
遠野さんはますます興味を引かれ、ガラスに額をこすりつけんばかりにして水槽を覗きこんだ。
果たしてその視線に気づいたのかどうか、水槽の中の自分が、ふっとこちらを振り向きかける。ふっくらした白い頬が見え、黒真珠のような瞳がこちらを向く。それと目が合いかける寸前、いきなり目の前が真っ暗になった。
横にいた父親が遠野さんの目を覆い、抱きすくめるように身体を引き寄せたのだった。
遠野さんはすぐに父親の手を振りほどき、水槽に視線を戻したが、もうひとりの自分もクマノミのぬいぐるみも、跡形もなく消えていた。たどたどしい言葉で自分が見たものを説明しようとするが、父親は「何もいないよ」「気のせいだよ」と繰り返すばかり。そのうち遠野さん自身も「見間違いだったのかな」と思いはじめた。
帰りにグッズショップでお望みのぬいぐるみを買ってもらい、大いに満足したこともあって、遠野さんはこの不思議な体験のことを、それきりすっかり忘れてしまっていた。
忘れていた記憶が蘇ったのは、それから二十年以上も後――会社の異動で、遠野さんがI地区にある本社へ通うようになったことがきっかけだった。娘の栄転を祝うため家族が催した酒宴の席で、父親がこんなことを言いはじめたのである。
「気にしすぎだとは思うんだけどさ。Sビルのあたりには、あんまり近づくなよ」
遠野さんが真意を問いただしたところ、父親は歯切れの悪い口調で、このような話をはじめた。
「憶えてるかな……五、六歳のころ、お前をあそこの水族館に連れて行っただろ。そこでちょっと、変なことがあったんだよ」
そのとき父親は、夢中で水槽にへばりつく遠野さんの姿を、すぐ横で見守っていた。そんなに真剣に何を見ているのだろうと、その視線を追ったところ――水の中に、もうひとりの娘が座っているのを目撃する。
その「娘」が今にも振り返ろうとしているのがわかった瞬間、ぞっと全身に鳥肌が立ち、反射的に娘の目を覆っていた。
見せてはいけない。理屈はわからないが、そう思ったらしい。
水中にいる「娘」は黒いガラスのように無表情な瞳で父親の顔をちろりと見上げ、カッと猫が威嚇するような形相になったかと思うと、泡を散らすように消えた。
姿が見えなくなったあとも、しばらくは鳥肌が収まらなかったという。
「それを聞いて、忘れていた小さい頃の記憶がばーっとよみがえってきたんです。父も同じものを見ていたとわかったら、すごく怖くなって……」
通勤の際はわざと遠回りをして、Sビル近くを通らないようにしているのだという。
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共潜
鳥羽や志摩の海女たちに伝わる怪異。海に潜っていると自分そっくりの姿で現れ、鮑などを差し出してくる。ここで素直に受け取ると、そのまま命を奪われてしまうが、背を向けて後ろ手に受け取れば助かると言われている。
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