油すまし(前編)

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油すまし(前編)

 吾妻(あがつま)さん(四十代男性)の思い出話。  彼は熊本県の出身である。今から三十年以上も前、彼の家族は市街地から外れた、山の中の集落に住んでいた。小学校までは、徒歩で一時間近くもかかったという。 「小学三年か、四年の頃だったね。ブゥちゃんっていう近所の友達と学校から帰る途中、フッと、あるお化けの話を思い出したんだ」  そのお化けとは、「(あぶら)すまし」。  学校の図書館で何気なく開いた妖怪図鑑の中で、地元・熊本の妖怪として紹介されていたものの一つだった。  水木しげるの描いたビジュアルの知名度こそ非常に高いものの、特にインパクトのある見た目というわけでもなく、人間に対して何をするわけでもない。ある意味、非常に地味な妖怪である。  だが油すましには、非常に有名なエピソードが存在する。  初出は浜田隆一という郷土史家の著した『天草島民俗誌』。のちに柳田國男が『妖怪談義』で引用したことにより、広く(好事家の間に、という但し書きはつくが)知られるようになった。現在でも、油すましを紹介する際には必ずと言っていいほど引用される逸話であり、この妖怪が吾妻少年の記憶に残っていたのも、まさにそのエピソードがゆえであった。  以下に、その概略を紹介しておく。  熊本にある草隅峠(くさずみとうげ)草積峠(くさづみとうげ))という場所を、孫を連れた老婆が歩いていた。老婆が孫に、「ここに昔、油瓶さげたのが出たそうな」と話して聞かせていると、どこからともなく「今でも出るぞー」という声がして、油瓶さげたのが現れたという。  この「油瓶さげたの」こそが妖怪・油すましだというのであるが、その解釈には諸説ある。前述の『妖怪談義』において柳田は「油の瓶を(手に)提げた怪物」ととらえ、多くのフィクションや妖怪図鑑などでもその認識が踏襲されているが、浜田はそこまで断言してはいない。あくまで「油瓶さげたの」であり、これを「油瓶が下がってくる怪異」、すなわちヤカンヅルやチャブクロ、サガリやツルベオトシ等の「高所から物体がぶら下がる怪異」の仲間として捕らえる向きもある――のだが、この議論自体は吾妻さんの話とは無関係であるため、このくらいにしておく。  さて、そんな油すましのお話を、唐突に思い出した吾妻さん。彼は続けて、こんなことを考えた。  ここはその峠じゃないけれど、同じ熊本県だ。だから……。  出るんじゃないか、ここにも。  図鑑に載っていたお話を今ここで自分が語れば、「いまでもいるぞ」と言って、油すましがやってくるんじゃないか。  我妻さんたちが歩いているのは右手に鬱蒼(うっそう)とした雑木林が続く山道で、まったく人気(ひとけ)がない。時間は夕刻、逢魔時(おうまがとき)。お化けを呼ぶにはなかなかおあつらえ向きのシチュエーションであった。  彼はさっそく、実験を開始した。「昔、このへんに油すましってお化けが出よったげな。昔、このへんに油すましってお化けが出よったげな」と、まるで呪文のように繰り返しはじめたのである。  当然ながら、同行しているブゥちゃんは、突然妙なことを口走りはじめた友人に思いきり不審そうな顔を向けてきた。  いや、実はこれこれこういうお化けがいて、今の話をすると現れるかもしれなくてと必死で説明するが、「アホか、そんなんおるわけなかろうもん」と鼻で笑われる。確かにそうだよな、オレもバカなこと考えたもんだ、と肩を落とした、その直後。  がさ。  がさ、さ、さ。  右手の雑木林から、下草を踏みしだく音が聞こえてきた。  ふたり同時に、音のほうを見る。立ち並ぶ木々の向こうで、人影らしきものが揺れていた。その上背(うわぜい)が異様に高い。  不安にかられ、吾妻さんたちが足早に歩きだす。  がさ、さ、さ。  人影はついてくる。どれほど山に慣れた人でも難儀する(やぶ)の中にいながら、舗装された道路を進む吾妻さんにぴったりと並走してくる。  ワッと叫んで、吾妻さんが駆けだした。一拍遅れて、ブゥちゃんが続く。  がさがさがさがさがさ。  雑木林にいる何者かも速度を上げた。右半身に圧を感じる。相手の視線を、息遣いを、離れていてもはっきりと感じた。  やがて、分かれ道が見えてきた。吾妻さんの家は右の道。ブゥちゃんは左だ。雑木林はちょうどその手前で途切れている。  ふたりは別れの挨拶もしないまま、ぱっと左右に分かれ、おのれの家を目指して走った。  最後に、吾妻さんが背後を振り向くと――。  林の中に、異様なほど背の高い男が立っているのがはっきりと見えた。紺色のレインコートのようなものを着て、肩から頭陀袋(ずだぶくろ)を提げていた。 「あいつを見たのは、それが最初で最後でした。次の日、学校でブゥちゃんと顔を合わせても、二度と油すましの話はしませんでしたね。話せば、またあいつが現れるような気がしてたんです」  それから間もなく、吾妻さんの家族は関東へ引っ越した。熊本には一度も帰っていないという。 「だから、なんでしょうかね。あの日のことを思い出すと、妙に懐かしい気持ちになるんです。もちろん、当時は相当ビビッてましたけど……今となっては、思い出の一ページというか。……あいつ、今でも、あそこにいるんでしょうかねえ」  吾妻さんはそう言うと、なんだか照れくさそうに笑った。 ===== (あぶら)すまし 熊本県の天草に伝わる妖怪。一説によると、天草の方言で椿油を搾ることを「すめる」と言い、これが変化して「すます(すまし)」になったのではないかと言われている。その場合、名前の意味は「油を搾る者」とでもなろうか。 =====
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