うしろ

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うしろ

 渡辺さん(三十代女性)の体験談。  その日、渡辺さんは軽自動車を運転し、高速道路を飛ばしていた。  パーキングエリアで一服し、運転を再開したあたりで、右隣の車線に一台の車がついた。特に何の変哲もない、グレーの国産車だった。  自分と並走するその車に、渡部さんはしばらく、何の注意も払わなかったが、ふと、その車の様子に違和感をおぼえはじめた。  違和感のもとはタイヤだった。相手の車の前輪。その、ホイールキャップが問題だった。  顔があるのだ。  大きな女の顔だった。ホイールの幅いっぱいに、血色の悪く青白い肌がみちみちに詰まっている。そのサイズ感をして、某デラックスな巨体の女装タレントに似ていた、というのは渡辺さんの言。睫毛(まつげ)の長い目を見開いて虚空を見つめ、真っ赤な唇をだらりと半開きにしていた。 (気持ち悪っ)  はじめは、ホイールキャップに写真がプリントされているのかと思ったが、目鼻が立体的に造形されていることに気づいて、プラスチックの作り物かと思い直した。  いや。  だとしても――変だ。  ホイールキャップにくっついているならば、タイヤとともに回転していなければおかしい。だが、その顔はそうではなかった。どういう原理か、常に道路に対して垂直の角度を保っている。  後輪には顔がなく、普通にくるくると回転しているので、違和感が一層際立つ。というか、そもそも渡辺さんが抱いた違和感の元は、どうやらその「ホイールキャップが回転していないこと」であったらしい。視界の隅でちらりと捉えたその不可解な動きが、意識の外で警告を発していたのだ。  なお、世の中には実際に、走行中に回転しないタイヤホイールが存在する。「静止ホイール」と呼ばれるもので、内部に仕込まれたベアリングの効果によって、タイヤの回転がホイールの中心にまで伝わらないようにしている。  だが、このとき渡辺さんはそうしたものの存在を知らなかったし、見たこともなかった。  興味を引かれた渡辺さんの目は、前輪の顔へと吸い寄せられた。そしてすぐに、もっと不可解なことに気がついた。  動いている。  顔は、もぐもぐと絶えず口を動かしていた。よくよく目を凝らすと、どうやら、一定の動きを規則的に繰り返しているらしい。あるひとつの言葉を、延々と喋り続けている……半ば直感的に、渡辺さんはそう確信した。  なんて言っているんだろう。  不気味に思う気持ちを、好奇心がねじ伏せた。渡辺さんは窓ガラスに額がくっつかんばかりに身を乗り出し、じりじりと隣の車線へ車を寄せていった。窓を開けたところでどうせ声は聞き取れないだろうから、唇の動きを読むしかない。  口をすぼめて突き出す動き。あれはたぶん「う」だ。  ニッと口を横に開くのは「い」。  最後に口を若干すぼめつつ、縦に大きく開くのは「お」。 「う・い・お」「う・い・お」「う・い・お」……。  渡辺さんは何度か口の中でもぐもぐと唱えてみて、ようやくピンとくる解を思いついた。彼女が自分でそれを口にしようとした瞬間、 「うしろ」  スロー再生のように間延びした男の声が、すぐ耳元で聞こえた。  弾かれたように振り向いた渡辺さんが見たのは、巨大なダンプカーがリアウインドウいっぱいに迫ってくるところだった。  ダンプの居眠り運転による追突事故で、渡辺さんの軽自動車は廃車の憂き目に遭った。  原形を留めないほど潰れた後部座席では、一歳になったばかりの娘が眠っていた。 ===== 輪入道(わにゅうどう)片輪車(かたわぐるま) 鳥山(とりやま)石燕(せきえん)の『今昔(こんじゃく)画図(がず)(ぞく)百鬼(ひゃっき)』などに載っている妖怪。中央に人の顔も持つ車輪、あるいは車輪が片方しかない牛車に乗った怪人物の姿で伝わる。 石燕が参考にしたと思しき『諸国里人談』『諸国百物語』には、細かい差異はあるものの、相互によく似た話が掲載されている。とある女が、この妖怪の姿を覗き見したわずかな隙に我が子を失う……というものである。 =====
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