14人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
蠢くもの
大野さん(四十代男性)の体験談。
ある夜、残業で遅くなった彼は、いつもの家路を急いでいた。大野さんはマンションにひとり暮らし。待っている家族がいるわけではないが、その日はひどく疲れていて、早く横になりたかった。
あと五分ほどで自宅というところで、大野さんは路傍に奇妙なものを見つけた。
電話ボックスだ。
いや――そこに電話ボックスがあること自体はおかしくない。特に意識はしないながらも毎日目にしている、日常風景の一部であった。
問題は、その中だった。
黒い。
電話ボックスを構成するガラスが、内側から黒いなにかで覆われている。ボックス内の様子は全く見えないが、漏れる蛍光灯の明かりがしきりにチラチラと動いていることから、その「黒いなにか」がしきりに動いていることだけはわかる。
大野さんが想像したのは虫だった。おびただしい数の黒い昆虫――たとえばゴキブリ――がガラス面にびっしりとへばりつき、それが絶えず動き回っている。そんなふうに見えたのだという。
ぞっとしない想像だ。そんなものをわざわざ見たいとは思わない。だが、確かめずに立ち去るのは、それはそれで気になる。
結局、大野さんは好奇心に負けて、おっかなびっくり電話ボックスへと近づいていった。
ある程度近づいたところで、どうやら最初の想像が外れていたらしいことがわかった。虫ではない。なんだかよくわからないが、動いているのはもっと大きくて長い塊だ。
正体がわかったのは、手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来たときだった。
髪の毛だ。
黒々とした大量の毛髪の束が、熱帯魚の水槽内で循環するかのように上へ下へと蠢(うごめ)き続けていたのであった。呆然と立ち尽くした大野さんの耳には、毛束がガラスの内側を擦る音まで聞こえてくるほどだった。
ぞりぞりぞりぞり……。
ぞりぞりぞりぞり……。
なんだ、これは。
大野さんは驚き、とにかくなにか証拠を残さなければと思った。
スマートフォンのカメラを向け、震える指でシャッターを切ろうとする。
瞬間、タッチパネルがぷつりと暗転した。
「えっ。えっえっ」
困惑する大野さんはスマートフォンの電源ボタンを長押ししたが、うんともすんとも言わない。
直後、ガラスを強く叩く音が、彼の鼓膜を震わせた。
電話ボックスに目を戻すと、蠢く人毛で覆われた電話ボックスの内側に、団扇ほどもある大きな掌が押しつけられていた。
青黒く薄汚れた手だった。人間のものにしては、指の長さや太さがあまりにもバラバラすぎた。
大野さんは慌てて踵を返すと、大急ぎでその場を離れた。
幸い、自宅はすぐそこだ。明るいマンションのエントランスに駆けこむと、大きく息を吐く。
正体はわからないが、自分がなにか忌まわしいものを見てしまったことだけはわかった。
(どうしよう。お祓いかなにか、受けたほうがいいのだろうか)
そんなことを悶々と考えながら、三階の自宅に向かう。エレベーターに乗るのは怖かったので、階段を使った。
自室の扉を前にしてようやく、一握りの安心感が芽生えた。
(とにかく、今日は寝よう。あとは明日考えよう)
そんなことを考えながら、鍵をドアノブに差し込もうとしたところで、大野さんはピタリと凍りついた。
ぞりぞりぞりぞり……。
ぞりぞりぞりぞり……。
ドアの内側から、大量の毛髪が蠢く音が聞こえてきた。
結局、大野さんは漫画喫茶で夜を明かし、翌日は仕事を休んでお祓いを受けに行った。
自宅に戻ってみると、目に見える異常はどこにもなかった。しかし、部屋中に鉄臭いにおいが充満しており、一週間ほど消えなかったという。
=====
おとろし
鳥山石燕『画図百鬼夜行』に描かれている妖怪。絵巻物には「おどろおどろ」という名で、同様のものが描かれている。いずれの名にも「恐ろしい、不気味だ」のニュアンスが含まれているが、それ以上の詳細は不明。
ぼさぼさの長髪を意味する言葉「棘髪」との関連を指摘する説もある。
=====
最初のコメントを投稿しよう!