動物注意

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動物注意

 現役警察官の津村さん(四十代男性)が若い頃の話。  彼は新任の頃、四国のとある小さな警察署の交通課に勤めていた。主に担当していたのは、交通事故の処理である。  通報があれば事故現場に駆けつけ、事故当時の状況を調べ上げて、調書に記す。田舎は車がなければどこへも行けない車社会であり、高齢者ドライバーも多い。大都会とはほどではないだろうが、それでも忙しい日々であった。  目を覆いたくなるような悲惨な事故もあれば、呆れるほど馬鹿馬鹿しい事故もある。津村さんは来る日も来る日も、日々発生する事故のひとつひとつに、真摯に向き合い続けた。  ただ……その中には思わず首を傾げるような、なんとも得体のしれないケースもまぎれていた。  現場は、決まって同じ県道だった。  かつては野山だったところを切り拓いて通した、片側二車線のだだっ広い直線道路である。左右は鬱蒼(うっそう)とした雑木林が残っているため、決して見通しがいいとは言えないが、カーブがあるわけでも、子供が飛び出してくるような脇道があるわけでもない。居眠り運転でもしない限り、事故など起きようがないように思える。  にもかかわらず、年に二~三回のペースで、それは起きた。  通報を受けて問題の現場に向かった津村さんが見るのは、県道の真ん中にぽつんと取り残された一台の事故車である。ボンネットは無残にひしゃげ、ノーブレーキでなにかと正面衝突したとしか思えない。  が、周囲を見回しても、その「なにか」がないのである。  車同士の事故であるなら、相手の車がいるはずだ。だが、周囲をいくら探してもそれらしいものはない。飛び散った破片や塗料片も一台分だけで、道路にタイヤ痕もない。  かといって、ここは直線道路の真ん中だ。車をこんなふうに変形させるような障害物など、あるはずがないのである。周辺のガードレールや電柱を調べてみても傷ひとつ見当たらない。  普通車。軽トラ。タクシー。ワゴン車。ミニバス。事故を起こす車種に法則性はない。ただ夜遅い時間帯、周囲に一台も他の車がいないタイミングであることだけは共通していた。  輪をかけてわからないのは、事故の当事者であるドライバー達である。  彼らは一様に口を揃えて「突然、目の前に立ちはだかってきた壁にぶつかった」と証言した。「衝突した次の瞬間、壁はかき消すように消えた」とも。  妄言である。  津村さんはドライバー達の酒気帯びを疑ったが、アルコールが検出されたのはごく一部であった。居眠り運転だったとしても、面識すらない者同士が全く同じ夢を見るだろうか。しかも――現に彼らの車は、壁らしきものに突っこんだとしか思えない様態で破壊されているのである。  口裏を合わせて警察をからかっているとも思えぬ。津村さんが接した彼らは一様に困惑しきっており、車は大破し、むち打ち症などの後遺症が残った者もいる(幸い死亡者はいなかった)。いたずらにしては割に合わなすぎる。  そしてなによりも謎なのは、津村さんの指導に当たっていた先輩警官の対応であった。  当時の津村さんより三十歳ほど年上だったそのベテラン警官は、(くだん)の事故に遭遇すると、決まって「またかあ」と間延びした声を漏らす。  そしてパトカーを降りると、事故車もドライバーも放置して、おもむろに道路脇の雑木林に入っていく。そして、しばらくすると、(タヌキ)の死骸を持って戻ってくるのである。  このあたりの山野に普通に生息している、いわゆるホンドタヌキである。 「こいつが犯人だ」  彼は相も変わらず間延びした口調で言い、犯人こと狸を道路脇に放り出すと、粛々と事故の処理をはじめる。「野生動物との接触事故」として。  おかしい――と、思う。  確かに、そのあたりの林には野生の狸が生息していた。道路には、狸のシルエットの描かれた「動物注意」の交通標識も掲げられている。  ある一匹の狸が、道路を横断しようとして車にはねられる。これはわかる。その場で即死せず、重傷を負いながらも林に逃げこみ、そこで力尽きる。これもわかる。  だが……狸をはねた車の方は、こうはなるまい。  巨大な4WD車ですら、前面がぐしゃぐしゃに潰れているのである。とてもけだもの一匹の質量でこんな現象が起こせるとは思えぬ。第一、ドライバー達が見たという「壁」はなんなのか。  平仄(ひょうそく)が合わないのである。  津村さんは先輩警察官に何度も疑問をぶつけたが、彼の答えはまったく要領を得なかった。「俺に聞かれたって知らんよ」「まあ、そういうことにしておけや」と、面倒くさそうにあしらわれて、それきりである。  津村さんは毎回、狸ならぬ狐につままれたような気分だったという。  それでも事実として、たびたび事故は起きた。現場にはボンネットの潰れた車と困惑しきったドライバーと、そして必ず、狸の死骸があった。  数年その署に勤めた津村さんは、やがて大きな街の警察署に転勤となり、以後、その街には戻っていない。今もあの道路で奇妙な事故が続いているかどうかはわからない。知りたくもないという。  ただし数年前、津村さんは別の用事で、問題の道路を通過したことがあった。  動物注意の看板は、まだそこにあったという。 ===== 衝立狸(ついたてだぬき) 徳島県の伝承にある化け狸。巨大な衝立に化け、夜道を歩く人の行く手を阻んだという。同様の怪異に塗壁(ぬりかべ)野襖(のぶすま)などがある。 =====
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