トレチャッタヨー

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トレチャッタヨー

 井坂さん(四十代女性)が、とあるマンションに住んでいたころの話。  彼女の部屋は三階の角部屋。右隣の部屋には、ひとりの老人が暮らしていた。  (たま)に廊下で会えば会釈を交わす程度の浅いつきあいではあったが、何年も暮らしていれば隣人の暮らしぶりはうっすら見えてくる。老人はどうやら年金暮らし。訪れる家族もなく、たまに買い物に出かける以外はほとんど外出もせずに、ごくつつましい暮らしをしていた。  そんな隣人の孤独を癒していたとおぼしいのが、彼の飼っていた九官鳥(きゅうかんちょう)である。  むろん、ケージの中で飼育する鳥であるから、井坂さんが実際にその姿を拝んだことはなかった。九官鳥というのも想像でしかなく、本当はインコかなにか、別の鳥だったのかもしれない。井坂さんが知っているのは、その鳥が発する「声」だけである。  ご存じの通り、九官鳥は人の言葉を真似することができる。  隣家の九官鳥もその例に漏れず、壁越しにときおり「ゴハン!」や「タバコ!」と言う、調子っ外れな声が聞こえてきた。結構な声量であったが真夜中に騒ぐわけでもなく、迷惑だと思ったことは一度もないという。むしろ井坂さんはその声を耳にするたび、どこか微笑ましい気持ちになったそうだ。  だが、ある夏のこと。そんな九官鳥の様子がおかしくなりはじめた。  これまでおとなしくしていた明け方や夜中に、大声をあげるようになったのだ。 「イタ! イタイ! イタイイタイ! イタイ! イタイヨ! イタイイタイ!」  こんな言葉を、延々と繰り返す。  その異常な振る舞いはもちろん、執拗に繰り返される「イタイ」や「クルシイ」といった不吉な言葉も、井坂さんの心をざわつかせた。  今度、あの老人に会ったら、思い切って尋ねてみよう。  そう心に決めて日々を過ごすこと、一週間。井坂さんは一度たりとも老人の姿をみかけることはなかった。別の不穏な考えが胸に湧き上がってくるものの、自分は彼の家族でもなんでもない。思い切った行動を起こそうにも、井坂さんはなかなか踏ん切りがつかずにいた。  そんな、ある夜のこと。いつものように隣室の九官鳥が騒ぎはじめた。 「イタイー、イタイヨー、トレチャウ、トレチャ、トレチャウヨー」  甲高く、調子っ外れな声。井坂さんがはらはらしながら耳を傾けるうちに、声は徐々に、その激しさを増していった。 「ア、ア、ア、トレチャウ。トレチャ、アーッ! アアーッ! トレチャッタ。チャッタ、トレチャッタヨー。アタマガ、トレチャッタヨー」  それを最後に、九官鳥はふっつりと黙り込んだ。  井坂さんは朝まで鳥肌が収まらなかったという。  翌朝、井坂さんは警察に通報した。警察官の到着を待たずに仕事へ赴き、夜遅く帰ってくると、老人の部屋は黄色いテープで立ち入り禁止にされていた。  真相を話してくれたのは、警官と一緒に室内へ踏み込んだ、マンションの管理人だった。 「ドアを開けたらもう、すごいにおいがしてさ。黒雲みたいなハエがうわーんって向かってきて。嫌だ嫌だって思いながら、おまわりさんが寝室のドアを開けるのを見てたわけ。そしたら、開けた途端、真っ黒になった首がごろんって……」  自殺だった。老人は床に座りこみ、部屋のドアノブで首を吊ったのだ。  夏場ということで、腐敗の進行は早かったらしい。首が腐り落ちたことで老人の首は床に転がり、ドアノブには腐汁をたっぷり吸ったネクタイだけが巻きついていた。  井坂さんはそれから間もなくして、別のマンションに引っ越した。  あの九官鳥がどうなったかは知らない。 「アタマガトレチャッタ」老人の遺体状況を、いったい誰が九官鳥に教え込んだのかについても、わからないままだ。知りたいとも思わないという。 「というか、よく考えたら私、管理人さんにちゃんと聞かなかったんですよね。おじいちゃんの部屋に、九官鳥がいましたよね……って。まさかとは思うんですけど……でも、管理人さんも警察の人も遺体の話ばっかりで、鳥の話はしてなかったなって……」 ===== 以津真天(いつまで) 鳥山(とりやま)石燕(せきえん)の『今昔(こんじゃく)画図(がず)(ぞく)百鬼(ひゃっき)』に描かれた妖怪。元は『太平記』に登場する怪鳥で、疫病で都に死者があふれた際、紫宸殿(ししんでん)の上に現れては「いつまでも、いつまでも」と鳴いたという。 =====
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