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プロローグ 少年の夢
その部屋には、闇が広がっていた。
音もなく、何かが動く気配すらないその部屋。しかし入り口であるドアの隙間から微かな光が差し込んでいた。それによって浮かび上がるのは、磔にされた人影だ。
四肢を縛られ、俯いている様子の人影――暫定で、彼と呼ぶことにしよう――はぴくりとも動かない。
ぼろ切れのような衣服を身につけ、死んでいるかのように動きを見せない彼は今、夢の中にいた。
――どうして……どうして、こんなことを……
呆然と、夢の中の彼は呟く。彼がいるのは街の広場と思しき場所。だがそこには多くの死体が転がり、周りの家や建物からは炎が上がっていた。
――分からない?
彼の呟きに、答えが返ってくる。彼の目の前にいた少女からだ。
チュニックに長めのスカートといった一般的な服を着た肢体はしなやかで、小ぶりな顔には天性の愛嬌がある。顔立ちも整っており、誰もが目を向ける程の容姿を彼女はしていた。だが短く切った金髪から覗く双眸は異常なまでの歓喜で満ち、爛々とした輝きで以て、彼をただただ見つめていた。
――貴方を守るため、そして、ずっと一緒にいるためだよ
彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに彼に声をかけてくる。その声には溢れんばかりの彼への愛と、隠し切れない狂気が宿っていた。
――そう、ずっと一緒。未来永劫、もう貴方から離れない
少女が、一歩踏み出す。また一歩、更に一歩と踏み出し、彼に近づいてくる。
彼は恐れを抱き、後退ろうとするも、体が金縛りにあったかのように動かない。そのまま、彼は抱きしめられた。
――死が二人を分かつまで、ううん、死んでからも、これからは一緒なんだから
そう言った彼女は、唇を彼に近づけて来て――
「ッ! ハッ……ハッ……‼」
そこで彼は、跳ね起きるように目を覚ました。
開いた眼に映るのは、部屋に垂れ込める闇。体を動かそうとしても、磔にされた体はまったく動かない。目覚めた直後は荒い息を吐いていた彼は、そのことに安堵の吐息を漏らしていた。
(よかった……以前のまま、変わっていない)
夢の中に意識が沈んでから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
しかし闇の中に閉じ込められていることも、磔にされていることも、全ては彼自身が望んだこと。だから彼は、前と変わらぬ己の姿に微笑みすら浮かべていた。
(それにしても――久しぶりだね、あの頃の夢を見たのは……)
微笑みが自嘲を含んだものに変わる。先程までの夢は、彼の人生の中で最も幸福だった頃のもの。そしてそれが、終わりを迎える時のものだ。
その時の彼は情熱に溢れていて、彼の周りには彼を慕う人がおり、そして誰よりも愛しい人が傍らにいた。皆が幸福な未来が訪れることを信じていて、その為の努力を惜しまなかったのだ。
ふと、甘い追憶の誘惑が彼を襲う。愛する人と過ごした一場面が思い起こされた。
――愛してるわ。この世の中の、誰よりも
自分を抱きしめ、彼女は耳元で愛の言葉をささやいていた。満面の笑みを浮かべ、強く強く抱きしめて来た。
――ねえ、キスしよう?
甘えるように言って、彼女は目を閉じる。
唇を、自分のそれに近づけてきて――
「ッ……!」
彼は唇を噛みしめ、甘い追憶から抜け出した。
(もう……過去のことだ。今更思い返した所で、何になる……)
彼女が愛しいのは、今だって変わらない。自分を世の誰よりも愛していると、彼女は言ってくれた。だがそれは、自分だって同じだ。
(愛してる……愛してるんだ)
何度繰り返しても足りないくらい、君が愛しい。君と一緒にいた時の記憶は全てが輝いていて、叶うならこの腕で、ずっと抱きしめていたいと願う程に。
しかしそうであるからこそ、甘い追憶に浸ることなど許されない。自分は追憶する資格さえない程に、罪深いのだから……
そこまで考えたところで、微かな物音が聞こえた。
足音だ。微かに聞こえなかったそれは段々と大きくなってきて、ここに近づいて来ているのが分かる。同時に彼は、全てを察した――また、その時が来てしまったのだと。
ガチャリと、部屋の鍵が開けられる。
ギギギ……という金具の錆びた音が暗い部屋に響き、闇の中に光が差した。
「起きているか、『女王殺し』」
次いで響く、男の声。
「眠り過ぎて、耄碌してるんじゃないだろうな」
「……まさか。むしろ耄碌できるものなら、してみたいけどね」
「ふん、そんな冗談を言えるなら大丈夫そうだな」
「不幸なことにね。……それで? 僕の部屋を開けたってことは、そういうことでいいのかな?」
「お前の考えている通りだ。奴が再び、世界に現れた」
「そうか……なら、こんな所でのんびりしてる場合じゃないね」
「その通りだ」
男の腕が上がる。何人かが部屋に入って来て、『女王殺し』と呼ばれた者の拘束を外しにかかった。
「お前の使命を果たせ、『女王殺し』。お前の穢れた命は、全てそのためにある」
「言われなくても分かっているよ。……安心して。僕は必ず、使命を全うしてみせる」
そう、使命。己が己に課した、絶対に果たさなければならないこと。
大切な人を、この手で殺す。何度も世に現れるというのなら、その度に殺し尽す。
(さあ……今度も、殺してあげる)
君が、愛おしいから……
誰にも聞こえない声で、「女王殺し」は呟いた。
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