思い出の中で

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1995年 夏 北京   「行きたいところは天安門広場と故宮と万里の長城ですね? ほかに希望はありますか?」 「あとは本場の北京ダックとおいしい点心食べて、中国チックなものを買いたいって言うんやけど」 「中国チックなもの? かわいい雑貨やチャイナドレスとかですかね、それとも工芸品的な感じのもの?」 「どうなんやろ、娘の言うことは僕にはよくわからへんねん」  孝弘の向かいで焼き鳥を手に、伊藤はちょっと困ったように眉を下げた。  大阪出身の伊藤は四十代半ばの電機メーカー勤務の駐在員だ。  長女が中学を卒業するまでは家族でマレーシアに駐在していたが、娘の高校受験を機に家族は日本へ帰国してしまい、伊藤は単身赴任となったそうだ。  二年前に北京に赴任してきて、孝弘とはアルバイト先の上司である安藤を通じて知り合った。この夏休みに北京に遊びに来る娘とその友人の北京滞在中のアテンドを頼まれて、打合せがてら食事しようと誘われた。 「娘さん、大学生ですよね」 「うん。今年入学したんやけど、生意気でかなわんよ。北京やなくて香港勤務やったらよかったのにとか文句言われるんや」 「女子大生が遊びに行くなら香港のほうが楽しいでしょうね。でもわざわざ北京まで会いに来てくれるんでしょ?」 「父親に会うのはついでやな。旅行資金をもらおうと思ってるだけやね、あれは」  口ではそんなことを言いながら、伊藤はうれしそうに頬をゆるめる。それはそうだろう、春節休み以来、半年ぶりの娘との再会なのだ。 「上野くんなら年が近いし、話も合うやろうし、ガイド慣れしてるやろ」 「それなりに。娘さんは大学では中国に関係するような勉強をしてるんですか?」
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