思い出の中で

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 でも祐樹といたときみたいな、じりじりと胸が焼けつくような気持ちにはならなかった。あんなふうに突き動かされるみたいに行動したり、自分から積極的に声をかけていくようなことはなかった。  単純にそれだけの気持ちを相手に持てなかっただけだろうか。別の人だったら、帰国が決まっていても、もっと本気になれたんだろうか。  祐樹と座ったカウンター脇のテーブルには、スーツ姿の日本人が3人座って酒を飲んでいる。  今頃、祐樹もどこかでああして誰かと食事しているだろうか。広州なら日本人も多いし食事に困ることはないだろう。  それとも、胃が疲れたといいながら、ひとりで適当鍋を作っているだろうか。いや、ひとりじゃないかもしれない。  もう孝弘のことは忘れてしまって、新しい恋人がいるかもしれない。そんな想像をすると胸がきゅうっと痛む。  やっぱりまだ忘れてないのか。 「上野くん、追加、好きに頼んでや。若い子はたくさん食べて、病気したりせんようにな」  伊藤がメニューを差し出してくる。  雑念を振り切るように、目の前の食事に意識を戻した。 「ありがとうございます。じゃあ、おでんにしようかな。大根とこんにゃくと玉子、お願いします」  中国人の店員は日本語の注文を繰り返して確認し、厨房へ伝えに行く。 「ここのおでん、うまいよな」 「はい。やっぱりおだしの味がほっとしますね」  こんな会話を祐樹ともかわしたな……。そんなことを思ってしまい、孝弘は頭を切り替える。 「じゃあ、伊藤さんとは初日の夕食で待ち合わせでいいですか? 19時ですよね」  北京空港まで迎えに行って市内の観光地を案内して、夕食の北京ダックの店で伊藤と待ち合わせるというスケジュールだ。2日目に万里の長城と郊外の観光、3日目にショッピングと雑技団を見に行き、4日目の昼には上海へ飛ぶので、空港まで送って行く。  それで孝弘の仕事は終わりだ。 「ああ、よろしく頼むわ。娘は中国は初めてやから、色々とびっくりするかもしれんから」  伊藤の苦笑いに孝弘は「お任せください」とうなずいた。
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